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引用について、極めていい加減に



 昨日のエントリで引用したのは、しばらく前から頭の中でぐるぐる回っていた文章。


 ひとつめに関して。なんだか改めて「ハーバーマスっていろんなところから叩かれがちだよなぁ」とか思いつつ、例えばこの文章が「ドゥルーズはホントに真に他者を尊重する哲学者だった!ドゥルーズすごい!!ハーバーマス最低!うんこ、うんこ!」みたいな意味の文章だったとしたら、このフランス系の哲学者(誰かは知らない)は大馬鹿野郎と罵られても仕方がないような気がしている。


 大体、喩えが良くないですよ。「自分の本を燃やされる」という行為からは「ああ、なんか抗議行動なんだな。俺の本、好きじゃないんだな」という意味が汲み取れる。それに対して「もっとやってくれ」と促すのは、悪意に対して悪意を返すように「受け取られる」だろう。果たして、それは他者性を真に尊重する、と言えるのだろうか。


 あと、これは本当に「それを言っちゃあ……」という感じだけれども、「そんな他者を想定してどうすんの?」とも思う。まるで「他者を想定すること=すごく立派なこと」みたいに聞こえる。こういう言説を真に受けてだかなんだかしらないけど、最近やたらと「他者を想定しないのは悪い」とか「マイノリティを受け入れないのは問題だ」なんっつーコメントをみるけど、ちょっと首をかしげちゃいますよね(他者性・マイノリティ擁護発言って『僕って、こんなに器が大きいんですよ宣言』程度の意味じゃねーのか?お前ら、そういうポーズだけじゃん!)。


 「他者に対してハーバーマスとドゥルーズどっちが正しいのか」っつー問いは有効なものではなくて、ハーバーマス万歳!もドゥルーズ万歳!もどっちも大馬鹿者であるから、そういう大馬鹿者にならないように気をつけましょうね、みたいなね。大体ドゥルーズって「俺こそ、真に他者性を尊重してる哲学者だ」なんて言ってないでしょ、たぶん。


 ふたつめの引用に関して。別に、ひとつめとふたつめが関係しているわけじゃないんだけども、このルーマンの徹底した鋼鉄のスルー力が面白いんだよね。「他者性を尊重することなんか不可能だ」とか「ひとりのマックス・ヴェーバーを特定することなんか不可能だ」っていうところから始まってるじゃないですが、こういうのは。そっから「好き勝手やればよろしい(私も好き勝手やりますから)」って言うのは、健康的で良いなぁ、と思います。俺も好き勝手やろう、とか思う。





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