スキップしてメイン コンテンツに移動

スティーヴ・エリクソン『彷徨う日々』




彷徨う日々
彷徨う日々
posted with amazlet on 07.11.03
スティーヴ・エリクソン Steve Erickson 越川芳明
筑摩書房 (1997/04)
売り上げランキング: 195242



 スティーヴ・エリクソンの幻視力に魅せられて、もう何冊も彼の作品を読んでいるが、まさか処女作から彼が同じテーマ、同じ手法で物語を綴っているとは思わなかった――エリクソンの作品には、どれも複雑に線が入り組んだ対位法のような構造あり、そしてそこで描かれるのは「充実した生を不可能とされた何らかの欠陥/欠損を持つ男」と「超自然的な能力を持つ、美しい女」との強烈な愛である。既にそのようなスタイルは1985年の『彷徨う日々』で完成されており、その後『黒い時計の旅』においてより洗練された形でまとめられ、『Xのアーチ』ではもはや捉えることのできない結晶となっているように思われる。エリクソンは虚構の現実を見出す作家というだけではなく、「変奏」の作家でもあるのだ。


 『彷徨う日々』では、記憶に欠損を持った男ミシェルと、美しく充足した男であるジェイソン、それからローレンという女の三角関係が「一つの物語」として描かれている。ジェイソンとローレンは結婚しているのだが、自らの完璧な美しさを知っているジェイソンは、ローレンを蔑ろにしており、彼女は傷つけられている。そこに現れるミシェルとローレンが傷ついたもの同士で惹かれあうのは当然なのだが、興味深いのは、完璧な美しさに陰りが生じ。またローレンの心を失ってしまった後のジェイソンの心理描写だった。自転車競技の選手としてのピークも過ぎてしまい、妻の心も失った彼には、もはや何も残されてはいない。ここでジェイソンと、ローレン-ミシェルの関係は逆転してしまう。今度はジェイソンが「彷徨う」人間となるのだ。


 小説中で描かれる「もう一つの物語」では、映画がメインとなる(ちなみにここで登場する、未完の大作『マラーの死』が二つの物語をリンクさせるキーとなっている)。ここでの主人公である若い映画監督、アドルフは永遠に彷徨い続ける人として描かれているように思う。赤ん坊の頃に、双子の兄弟と生き別れ、高級な娼館で育てられた彼はずっと失ったものを取り戻せないでいる。彼のライフワークとなる映画も公開されることなく、生涯を失望とともに生きてきた、アドルフが老人として登場するところは突き刺さるほど悲しく思った。


 登場人物たちの「出会い」と呼応するように、天変地異や終末的な暴動(世界中で停電が頻発し、ロサンジェルスでは砂嵐と竜巻が起こり、寒波が猛威を奮うパリでは市民が焚き木を求めて暴動し、ヴェネチアでは運河を流れる水が枯れてしまう)が起こる。その不吉さもまたエリクソンのトレードマークのように思う。エリクソンのように類稀な想像力によって自らの世界を築いた作家には、ガルシア=マルケスやピンチョンを挙げることができるだろう。ただ、彼らのようなエリクソンに先行する作家たちと違って、エリクソンの小説は「虚構」という楽観性を持っていない。


 「トマス・ジェファーソンの愛人となった黒人奴隷」、「9と10の間にあるまだ発見されていない数字を証明しようとする数学者」、「ヒトラーがもし生きていたら」……エリクソンが幻視する世界から、取り上げてリストアップしてみると、こんな笑い飛ばしたくなるようなとんでもない要素がひっかかってくる。しかし、実際に物語のなかに登場するそれらはとても深刻な表情をしている。この深刻な表情が、作家の重さに繋がっていて、独特な求心力を生んでいる気がする。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か