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昨日のアドルノの続き




どのような音楽分析も直面する困難は、つぎの点にある。解体を進め、最小の細部を引き合いに出せばだすほど、ますますただたんなる音にすぎないものへと近づき、すべての音楽はただたんなる音の寄せ集めにすぎなくなる。



 楽譜上の音符の羅列もまた、単数として数えられるものである。それが読まれ、解釈され、演奏され、音になって聴衆の耳に届いたとき多義性は生じる。どのような作曲家を例にあげてもよい。例えば、シューベルトの歌曲であれば「死の予感」であるとか、「恋愛悲劇のよう」であるとか、様々な意味で解釈されてきた。それがマーラーであれば「死の恐怖」であるとか「憂鬱」であるとか、最近では「ポストモダンのさきがけ」という風にとられている。


 このように、読まれるものから聴かれるものを経由して、再び読まれるものへと目を向けたとき、音符の羅列はどのような変化を見せるのか。やはり、音符の単数性はゆるぎなく存在していることは確認され得るだろう。しかし、それは文学のテキストのように散種されることはない。一貫して五線譜上のドとレは「二度の関係にある2つの音」という意味のままである。ピアノの鍵盤を想像されると良いかもしれない。五線譜の下第一線上にある音符は、その音程のドを弾きなさいという指示である。その指示に変化は生じない。そしてまた、楽譜が作曲家の意図や感情を意味し始める、という事態も生じない。


 このような散種のされなさは、音楽のエクリチュールである楽譜が二重所属性を持つものではないということに起因しているように思われる。当たり前のことかもしれないが、楽譜はごく限られた音楽の領域でしか用いられない(意味の通じない)記録法なのである。別な音楽の領域では、全く違った音楽の記録法が用いられている(話がそれてしまうが、ガムランの楽譜は書き方だけでなく、読み方も違う。合奏の曲でもパート譜が存在せず、担当の楽器ごとに読み方を変えることによって演奏されるらしい)。


 ハンスリックは作曲家の意図や感情を読み取ることを退けたが、このような観点から楽譜を見た場合、新即物主義的な音楽批評がごときものは、散種のされないテキストをなぞりながら記述するにすぎないものとして考えられる。それは批評ではなく、翻訳作業である。和声の進行や律動や対位法を、音符から言語へと翻訳しているに過ぎない。


 アドルノの音楽批評とは、楽譜の「意図のなさ」、そして「散種のなさ」に挑もうとしたもののように思われる。批評によって音楽に意味を与えることがそこでは目指されている。しかし、それは音楽を損なうものであってはならないし、単に自分の感情と音楽を同一化するものであってものならない。



ベートーヴェン―音楽の哲学
テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 大久保 健治
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 本日の一言は、アドルノの死後に編纂された『ベートーヴェン――音楽の哲学』、5ページより。





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