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9月, 2007の投稿を表示しています

今日のアドルノ

思想の体系(システム)や政治の体系(システム)は、自分たちと同じでないものは何ひとつのぞまない。システムが強化され、存在するものを同じ名のもとに括るようになればなるほど、同時にそうしたシステムは存在するものをますます抑圧し、存在するものからますます乖離するようになる。  システムは外部を求めない。システムは他者を求めない。システムが求めるものはシステム内だけでコミュニケーションがとることが可能である、システムの鏡像としての他者である。そのように想定される他者はもはや他者性を持っているとは言えない。他者という被り物をした傀儡である。強化されるシステムの内部では、「同じ名のもとに」主体は束ねられ、標本化されていく。  「AはBである」と唱える思想のシステムAは「AはBではなく、Cである」と唱える他者の思想のシステムBを認めない。仮にシステムBを認めてしまったならば、システムAは存在することができないものとなる。ゆえにシステムAは、はBを徹底して排除しようとする。あるいは、排除しようとしない。そもそも「存在しなかったもの」として無視しようとする。このような行為をアドルノは「ファシズム的な同一化」と呼んでいた。  しかし、現実に存在するものは完全にシステム化され得るものとしては存在していない。だからこそ、システムが強化されればされるほど、「存在するものをますます抑圧し、存在するものからますます乖離するようになる」。このことを確認するためには、やはり第三帝国について触れておくのが最も簡潔だろう。  第三帝国が理想とし、命題として掲げた国家とは「純粋なゲルマン人によって統一されたドイツ」である。しかし、現実にはその土地には多くの非ゲルマン民族に属する人々が存在していた。現実は命題に反している(それはあってはならないことである)。ホロコーストはそのような現実を理想化するために駆動した。そして、事実、多くの非ゲルマン系の人々がその土地を去ることを余儀なくされ、去らなかった人々は理想によって存在の許されない立場におかれた。これによって、非ゲルマン人は存在していないものになり、第三帝国は正常で健全なゲルマン人によって統治されたことになる。  しかし、このような事態は理想とするシステムを現実からより引き離すことになる。その理由はごく単純な事柄にある。「存在していない」とされている非ゲルマ

アドルノって誰なの?

Q.アドルノって誰なんですか?  A.テオドール・ルートヴィヒ・ヴィーゼングルント・アドルノさんです。1903年にユダヤ系の裕福な家庭に生まれ、すくすく育ち、1969年に亡くなった20世紀の思想家/社会学者/音楽家/批評家/教師です。思想家としてはヘーゲルの弁証法を批判的に継承しており、社会学者としては特にメジャーな著作はありませんが社会心理学的な研究をしつつ、音楽家としてはアルバン・ベルクに師事、批評家としては「ベンヤミンのほうが優れてるよ!」とか言われつつも、大学の先生としてフランクフルト大学で教鞭をとりました。1969年4月に、左翼の女子学生がアドルノの講義中におっぱい丸出しで乗り込んでくるという事件があってから教師としては休業をせざるを得なくなったのですが、その年の8月に心臓発作で亡くなりました。 Q.アドルノって偉いの?あんまり名前を聞かないけど……  A.はい。結構偉いです。第二次世界大戦以前からフランクフルト大学の社会学研究所のメンバーとして「フランクフルト学派」を形成し、脚光を浴びていました。が、戦争が始まってアメリカに亡命。そこでも結構、活躍してました。あと戦後にドイツへ帰還してからも代表するドイツを代表する知識人として注目を浴びていました。しかし、あまりにも難しいことを言いすぎたのでイマイチマイナーな存在となっているように思います。でも、デリダもフーコーも「アドルノをもっと早く読んどけば良かったー」とか「アドルノがいなかったら俺もここまでこれなかったかも」とか言ってるぐらい、リスペクトされてる人なんですよ。日本だとさらにマイナーで大学の講義でもアドルノの名前を聞くことはほとんどありませんが……(しかも何故か研究者が関西に固まっている気がする……)。 Q.アドルノの入門書みたいなものってあるの?  A.一応、あります。 アドルノ―非同一性の哲学 (現代思想の冒険者たち) posted with amazlet on 07.09.30 細見 和之 講談社 (1996/07) 売り上げランキング: 162776 Amazon.co.jp で詳細を見る アドルノ/ホルクハイマーの問題圏(コンテクスト):同一性批判の哲学 posted with amazlet on 07.09.30 藤野 寛 勁草書房 (2000/05) 売り上げランキング: 299

フリッツ・ラング『メトロポリス』/アート・ゾイド

メトロポリス 特別編 新訳版 posted with amazlet on 07.09.29 有限会社フォワード (2007/02/20) 売り上げランキング: 6449 Amazon.co.jp で詳細を見る  ふらふらっとひやかしに入った楽器/CD屋で「ドイツ表現主義時代の名作」とか言われている映画が一律500円で売っているのを見かけて購入。アマゾンのレビューにも書かれていますが、BGMの選曲がものすごいなげやりです。冒頭からドビュッシーの弦楽四重奏曲が流れてずっこけそうになりました(しかも全楽章通して使用されている……しかも妙に演奏が良い)。  エレベーターで地下の作業場に送りこまれる労働者たちの暗い映像と、この優雅で感傷的な音楽が合うわけがない……。「DVDの製作者は、本当に何を考えていたのだろう……」と180度ほど首をかしげたくなります。ガチガチに構築された映像はすごくカッコいいのだけれども、アート・ゾイド(フランスのバンド。ムルナウ作品に音楽をつけたりしている)の力を借りたくなります。  って、探してみたらあったよ!!アート・ゾイドmeetsノスフェラトゥが!!!

昨日のアドルノの続き

どのような音楽分析も直面する困難は、つぎの点にある。解体を進め、最小の細部を引き合いに出せばだすほど、ますますただたんなる音にすぎないものへと近づき、すべての音楽はただたんなる音の寄せ集めにすぎなくなる。  楽譜上の音符の羅列もまた、単数として数えられるものである。それが読まれ、解釈され、演奏され、音になって聴衆の耳に届いたとき多義性は生じる。どのような作曲家を例にあげてもよい。例えば、シューベルトの歌曲であれば「死の予感」であるとか、「恋愛悲劇のよう」であるとか、様々な意味で解釈されてきた。それがマーラーであれば「死の恐怖」であるとか「憂鬱」であるとか、最近では「ポストモダンのさきがけ」という風にとられている。  このように、読まれるものから聴かれるものを経由して、再び読まれるものへと目を向けたとき、音符の羅列はどのような変化を見せるのか。やはり、音符の単数性はゆるぎなく存在していることは確認され得るだろう。しかし、それは文学のテキストのように散種されることはない。一貫して五線譜上のドとレは「二度の関係にある2つの音」という意味のままである。ピアノの鍵盤を想像されると良いかもしれない。五線譜の下第一線上にある音符は、その音程のドを弾きなさいという指示である。その指示に変化は生じない。そしてまた、楽譜が作曲家の意図や感情を意味し始める、という事態も生じない。  このような散種のされなさは、音楽のエクリチュールである楽譜が二重所属性を持つものではないということに起因しているように思われる。当たり前のことかもしれないが、楽譜はごく限られた音楽の領域でしか用いられない(意味の通じない)記録法なのである。別な音楽の領域では、全く違った音楽の記録法が用いられている(話がそれてしまうが、ガムランの楽譜は書き方だけでなく、読み方も違う。合奏の曲でもパート譜が存在せず、担当の楽器ごとに読み方を変えることによって演奏されるらしい)。  ハンスリックは作曲家の意図や感情を読み取ることを退けたが、このような観点から楽譜を見た場合、新即物主義的な音楽批評がごときものは、散種のされないテキストをなぞりながら記述するにすぎないものとして考えられる。それは批評ではなく、翻訳作業である。和声の進行や律動や対位法を、音符から言語へと翻訳しているに過ぎない。  アドルノの音楽批評とは、楽譜の「意図のな

またPerfumeでトラバが飛んできやがった

哲学の負うべき課題は、現実のなかに隠されてすでに存在している意図を探りだすことではない。そうではなく意図なき現実を解釈することなのだ  音楽と文学は、どちらも書かれたものである。それについては今更言うべきことでもないだろう。現に我々は今、文学のテキストを書かれたものとして日常的に読んでいるし、読める/読めないは別にしても五線譜上に配置された音符を目にしたことがあるはずだ。しかし、それらが同じ「エクリチュール(書かれたもの)」だったとしても、双方を比べてみるとだいぶ違う意味合いを含んでいるように思われる。  「He war」。ジェイムズ・ジョイスによって書かれたこの文字は、「彼は戦争する(英語)」/「彼は(英語)存在する(ドイツ語)」という二つの意味で解釈され得る。しかし、その解釈するときに解釈者のなかに生じる意味は、書かれたものが元々保有していたものではない。このような意味の多様性(書かれたものが持つ、意味の複数性。そのような状態をデリダは散種と読んでいる)はそれが読まれた瞬間、パーロルとして解釈者の耳に届いた瞬間に生じる。「He war」の「war」は、英語なのか、それともドイツ語なのか。それらの音声的な意味のズレによって、単数的な「war」へと複数の意味が与えられる。  このような関係を音楽のテキストである楽譜と比較してみよう。五線譜上に並べられたドとレの位置にある音符はどのような意味を持っているのか。そしてそれは文学のテキストのように散種され得るものなのか(続く……かも) 社会学講義 posted with amazlet on 07.09.29 アドルノ Theodor W. Adorno 河原 理 高安 啓介 太寿堂 真 細見 和之 作品社 (2001/07) 売り上げランキング: 265221 Amazon.co.jp で詳細を見る   本日の一言はアドルノの講義録『社会学講義』より(たぶん。ページとか忘れました)。 大嘘。これ『哲学のアクチュアリティー』という講演録からでした(1931年のもの)。邦訳は20年前の『現代思想』にのっています。

良い映像

 山形新幹線とSLが夢の競演。

ピエール・ブーレーズを区分として

 現代に作曲されている音楽を聴こうとしているけれど、若い作曲家が作る音楽を聴いていても結構ピンとこないことがある。「現代の音楽」のはずなのに、上手くそれが「現代音楽」のように感じない。  「現代音楽」という言葉を聴くたびに、私の頭のなかで想像される音楽はブーレーズのピアノ・ソナタである(冒頭に貼付したのは彼の第一ピアノ・ソナタ)。彼のピアノ・ソナタは3曲あり、全て40~50年代に書かれている。性格に言えば、この作品は「かつて現代音楽だったもの」ということになる。全面的な音列技法や(第3番)「管理された偶然性」といった、これらの作品で用いられた語法も「作曲科の学生が課題で書く以外に使われていないのではないか」と疑いたくなるぐらいに古びてしまった。  今アカデミックな楽壇でどのような音楽が流行っているのかよくわからないけれど(エレクトロニクス?身体性?)、もはや音列の時代ではなくなったことはなんとなく感じる。しかし、それでも尚、ブーレーズの音楽が、私のなかで「現代音楽」という言葉と結びついている。人によってそれがシェーンベルクかもしれないし、シュトックハウゼンかもしれない。あるいはリゲティかもしれない。人それぞれそういう感覚が異なるのはわかっているけれども、あくまで私のなかでは「現代音楽=ブーレーズ」なのだ。  こういう感覚は、たぶん私の歴史観に起因するものなのだろうと思う。ブーレーズの音楽には「近代以降の西洋音楽の終着点」みたいなものを感じる。西洋において作曲(composition)とは、五線譜に書かれたものとして音楽を構成/構築する(compose)行為であった。音楽は作曲家によって紙の上において管理される。いくらベルリオーズやチャイコフスキーが感情を喚起させる音楽を書いていたとしても、実際に彼らがやっていたのは紙の上で音符を並べることにすぎない。この音楽管理の方法(あるいは管理しようとする意思)は、ブーレーズのトータル・セリエリスムにおいて最も強く表現されているように思う。  「バッハ以前/以降」、「ベートーヴェン以前/以降」という風に時代を区分するなら「ブーレーズ以前/以降」と言う区切りもできる気がするのは、ブーレーズ以降の作曲家が前述した「管理方法」から大きく逸脱しているからだ(もちろん、同時的に『ケージ以前/以降』という言い方もできるわけだけれど)。大げさ

美の理論/ミニマ・モラリア

美の理論 新装完全版 posted with amazlet on 07.09.27 テオドール W.アドルノ 大久保 健治 河出書房新社 (2007/09) 売り上げランキング: 192426 Amazon.co.jp で詳細を見る  先日、河出書房新社より永らく絶版状態にあった『美の理論』が復刊されました。が、値段を見てびっくり。平均的な学術書の値段だと私が感じるのは、せいぜい3000円~4000円(3000円切っていると安いな、と思う)。12000円超という価格は、少し踏ん切りがつきません。それでもいつもなら「ついに読める日が来たのかー」と買ってしまうのですが、この大久保健治による翻訳の評判を聞いた限り「踏ん切りをつけないほうが良いのかな」とも思います。どうやらかなり酷いらしい。読みにくさ、誤訳っぷり、どれをとっても超一流だ、と以前アドルノを専門にしていらっしゃる方にお聞きしました。  そういう評判が立っているものを、復刊するのはどうなの?(CS向上がどの業界でも叫ばれるこの時代に!)と問い詰めたい気分で一杯ですが「原書が読めないヤツは翻訳に文句を言うな!」というのが私のポリシー(のはず)だったため、グッと堪えます。しかし、悔しい。「文化産業め……、俺を疎外しやがって……足元見やがって」と腹の中が煮えっておりますが、そこで紳士的に方向転換。ちょうど良い機会なので日本語で読むのを止めようと思います。 Aesthetic Theory (Continuum Impacts) posted with amazlet on 07.09.27 Theodor W. Adorno Robert Hullot-Kentor Continuum International Publishing Group Ltd. (2004/10/21) 売り上げランキング: 10428 Amazon.co.jp で詳細を見る Minima Moralia: Reflections on a Damaged Life (Radical Thinkers) posted with amazlet on 07.09.27 Theodor W. Adorno E. F. N. Jephcott Verso Books (2006/01) 売り上げランキング: 37229 Amazon.co

今日のアドルノ

思考は主人が勝手に静止することのできない奴隷である。  ヘーゲルの「主人と僕(しもべ)」の喩えを思い出しても良いし、個人が先か社会が先かという古典的な論争を想起しても良い。あるいはシステムのことを考えても良いだろう。とにかく、今日は疲れたので適当です。マジメに働いていると道具的理性によって疎外されてる気分になるよ!というのでは、あまりにも酷すぎるのでもう少し言葉を補っておく。  道具化された理性はしだいにまとまりを持ち始め、元来自然を支配するという目的で用いられてきた性格は変容していく。自然に脅かされることによって誘発される人間のパニックとは無関係に、理性は駆動するようになる。そのとき人間と理性の間にある関係はかつての単純なものではない。もはや、人間が理性を道具として使用する、という単純な主従関係は見られない。道具によって人間が規定され、自由を奪われていく――そういった相互的な主従関係、ベクトルが逆向きの屈折した支配関係に変化していく。  ありきたりではあるが、オートメーション化された工場、特にベルトコンベヤー方式によって大量に自動車を生産することを可能にしたフォード方式が適切な具体例としてあげられるだろう。その工場は自然を支配するために動いているわけではない。経済性、あるいは資本主義といったイデオロギーに人間を従わせる機械として存在している。そこで再び、主体の自由は奪われる。自然の暴力から人間を連れ出すための理性が、新たな暴力を生むのである。 啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫 青 692-1) posted with amazlet on 07.09.25 ホルクハイマー アドルノ 徳永 恂 岩波書店 (2007/01) 売り上げランキング: 81591 Amazon.co.jp で詳細を見る  本日の一言は引き続き『啓蒙の弁証法』、48ページより。

トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

競売ナンバー49の叫び posted with amazlet on 07.09.25 トマス ピンチョン Thomas Pynchon 志村 正雄 筑摩書房 (1992/11) 売り上げランキング: 58107 Amazon.co.jp で詳細を見る  なんとなく再読。なんか長いピンチョンに慣れてから再読すると「え?もう終わり!?」とか思うね。

アルバート・アイラー「ゴースツ」

 詳細は不明だけれど、アルバート・アイラーが演奏する「ゴースツ」が使用されている動画(しかも色んなバージョンを繋ぎ合わせて作ってある)。中上健次は「『破壊せよ』とアイラーは言った」と言ったけれど、アイラー自身はそんなことを言っていなくて、彼の音楽にあるのってそんな破壊衝動ではなくて、もっと穏やかな創造することの幸福だと思う。楽しげなテーマが吹奏されたあとにやってくる混沌とした音の羅列は意味不明だけれど、なんか聴いててハッピーになってしまう不思議な効用がある。結局、いまだにアイラーの音楽についてはよくわからないままなのだが、そういう効用を求めて聴いている。それは「フリージャズによって吐き出される感情が……」云々に共感するわけではなく、理解不能なものへと求心されていく不思議な現象だ。「一体、これはなんなのだろうな」と首をひねりながら、楽しくなっていく。こういうのはオーネット・コールマンやジョン・コルトレーンにはこういう楽しさはない気がする。彼らの音楽は、不器用なほどマジメだ。 Spiritual Unity posted with amazlet on 07.09.25 Albert Ayler Get Back (2005/03/15) 売り上げランキング: 9603 Amazon.co.jp で詳細を見る

カッチカチやぞ!

http://jp.youtube.com/watch?v=BGv5cBEVlGA *1  ずっとこのブログの一行紹介には最近好きな一言を書くようにしているんだけれど、今載せている「カッチカチやぞ!」に関してはあまり分かってくれる人がいないみたいなので、説明の代わりにその元ネタとなったザブングルの映像を貼っておきます。このコンビの畸形っぽい顔の方が、私の弟にそっくりだったので前から結構好きだったんだけど、最近になって私の中で彼らの評価が再燃してしまって……面白いネタの数は多くなくてパッとしないんだけど、いや、でも、この顔は才能だよね、と思うわけです。何より無意味さが良い。 *1 :動画をアップした人が参照制限かけているようなのでリンクのみの表示にしています

青山真治『サッド・ヴァケイション』

サッド・ヴァケイション posted with amazlet on 07.09.24 青山真治 新潮社 (2006/07/28) 売り上げランキング: 16990 Amazon.co.jp で詳細を見る  青山真治監督による「北九州サーガ」の完結篇。冒頭から異常に暗い環境のなかでカメラが回されており「いきなりすごい絵を見せてくれるな……」と面食らってしまったが、こういう斬新な絵(もしかしたら元ネタがあるのかもしれない、しかし、それは私にはわからない)をポンポンと並べた構成を、安心して観ていられるという不思議さがこの監督にはある、と思う。冒頭で浅野がチャリを必死で漕ぐシーンで「ああ、これはもう大丈夫だ」と思わせる力強さとか。  映画の宣伝はこの作品を覆った「母性」について触れている。また、この作品から中上健次の小説へのトリビュートを読み取ることも出来るだろう。これらの指摘や記述はとても的確だが、あまりにも簡易的に記述可能な的確さである。深読みしろ、というわけではない――しかし、この作品に関する記述はもっと深められてしかるべきだろう。  少なくとも私には、「母性」へと主観を限ってたときに石田えり演じる母親と対比させれる中村嘉葎雄の厳格かつマトモな「父性」はどうなるのか?と単純に思われるし、それよりももっと単純に「中上トリビュート」でありつつ中上を乗り越えるような作品であるように思われた。この作品が持つ射程は「母性」や「中上」という枠組みから大きくはみ出した射程を持っているのだ(というわけで、あえて母性や中上には触れないで話を進めていこう)。  しかし、注目されるのは作品に隠されているものではなく、あからさまに表面に出ているもの、使用されている数々の「言語」である。この作品のなかでは北九州弁(この記述が正確なものかどうかは不明だ)がメインの言語として使用されているが、その点は『ユリイカ』についても同じことが言える。しかし、この作品では使用されている言語に限定されたところがない。綺麗な標準語を使用している人物もいれば、若者言葉を使用しているものもいる。また、カタコトの日本語を話す中国人や、日本語が話せない中国人も登場する。これらの演出は強烈に登場人物がそれぞれ他者として描かれているという印象を強めているように思う。  ゆえにその他者たちは分かりあえていない。劇中で結ばれ

内田光子のベートーヴェン・ソナタ第2弾

ベートーヴェン:ピアノソナタ第28番&第29番 posted with amazlet on 07.09.22 内田光子 ベートーヴェン ユニバーサルクラシック (2007/07/25) 売り上げランキング: 198 Amazon.co.jp で詳細を見る  近年、内田光子はベートーヴェンに集中的に取り組んでいる。昨年は後期の「三大ソナタ」と呼ばれる第30番から第32番までの連作をリリースし、今年の7月に彼女その第2弾となる録音を発売している。この作曲家について彼女自身は「最も近寄りがたい作曲家、神様のような存在」というような発言をおこなっているのだが、1年以上のブランクを開けてのリリースに「やっと自信が持てる形にすることができたのだな」というのが伝わってくる。今回は第28番と第29番を取り上げていて、これで後期のベートーヴェンのピアノ・ソナタはほぼ出揃ったことになる。  どのような演奏の内容か、ということには上手く触れられない。かなり長い間、内田光子のピアノ演奏を好んで聴いてきた私にとって、今回の録音も「ああ、内田光子の演奏だなぁ」という感想を抱いてしまう。テンポの揺らぎやメロディの歌い方、または音楽が鳴り出すときの慎重さ――それらは私の中で「内田光子」という名前につながってしまう。どのような作曲家をとりあげても「内田光子の○○」として語ることが出来る、そういうピアニストの性格は変わりが無い。  しかし、第29番《ハンマークラヴィーア》の演奏には驚くべきものがあった。この作品はベートーヴェンが書いたピアノ作品のなかでも、最も技巧的な作品として知られているのだが、私は内田光子を「技巧派」というよりも「詩情的で、パーソナルな世界観をもった解釈者」として聴いていたので、作品との相性が心配だったのだけれど、そんな心配が杞憂であったことを最初の1分で証明するような演奏だ。  《ハンマークラヴィーア》の冒頭は、ピアノ協奏曲第5番《皇帝》に通じるような、華やかさをもって始まる。その大きなインパクトが去った後、「またこれから改めて音楽をはじめますよ」というしきなおしがあるのだが、この部分の「語りなおし方」が実に素晴らしい。音楽は改められる。しかし、それは全く新しく始まっているわけではない。動と静の有機的な繋がりあいにグッと引き込まれてしまう。  しかし、それらは全て「内

《春の祭典》の再創造

 またヤバい映像を見つけてしまった……。ピエール・ブーレーズ/パリ管弦楽団による《春の祭典》。イーゴリ・ストラヴィンスキーのこの作品といえば、もはや20世紀音楽の代名詞のひとつにもなっており「何をいまさら……」と思われるかもしれないが、この再演はオリジナル初演時のスキャンダルを再現するかのような衝撃力を持っている。  古代の闘技場を模した舞台の上で、躍動する筋肉の動き、あとホンモノの馬を贅沢に使用した演出が、否が応でもジョジョ第2部のジョナサンVSワムウを思い起こさせ、今にも「流法!神砂嵐!!」という力強い叫び声が聞こえてきそうである……とこれ以上、つまらない冗談は止しておくが、やはりこういうものにかける情熱はフランスという国は狂気染みたものがある。  この《春の祭典》、最後までアップされていないのが本当に惜しまれる(誰か続きをアップしてくれ!)。オリジナルでは「最後は生贄に捧げられた乙女が踊りながら死ぬ」という話になっているはずなのだが、この演奏ではどうやらフランク・ザッパそっくりの男が殺されてしまいそうな雰囲気。ザッパは最後どうなるのか……?その辺が非常に気になる。  演奏はパリ管が「やっぱり現代音楽とかこういう激しいものって苦手なんだなぁ」という感じで、激しいリズムの運動をややもたつきながら演奏しているのが生々しく逆に良い。リズムに摩擦力みたいなものを感じる。あと、やたらとバスクラの音が大きく録られていて、すごく『ビッチェズ・ブリュー』です。

Yannis Kyriakides(ヤニス・キリアキデス)

Yannis Kyriakides(MySpace)  先日もご紹介したガウデアムス現代音楽センターのサイト *1 に掲載されていた名前を適当に調べてみる。目に付いたたのはキプロス出身の作曲家、ヤニス・キリアキデスのMySpace。1969年生まれとまだかなり若い方だが「現代音楽のフィールドにいる人がMySpaceをやっている」というのは、未だに衝撃的である。あと何年かしたらそんなの当然、やってないほうがおかしい――みたいなことになるんだろうか。  現在はオランダ在住でオランダのポストパンクバンド、The Exと一緒に活動をしていたこともあり、エレクトロニクスを多用した作風などから「その方面」では日本でも既に名が知られているらしい(日本語で検索してもいくつか紹介しているサイトがヒットする)。MySpaceにアップされているものは確かに、流行りそうな風合いのものである。まどろむようなドローンと点描的な音素材が詩的に並び合っている。 yannis kyriakides  実はこの人も「ガウデアムス」の出身者(2000年に入賞)で、作曲家の公式サイトではその受賞作品《a conSPIracy cantata》が聴ける(抜粋だが)。編集された短波ラジオの音(冷戦時代に各国が持っていた公安組織が交わしたものらしい)、謎めいた女性の唸り声、エフェクトがかけられた様々な楽器の音、そのような環境の中で「陰謀のカンタータ」が奏でられる――といったようなコンセプト(超要約)によって書かれた作品。これもなかなか好きな人が多そう。全体的な印象は「ポストミニマル世代のジャンルレスなアーティストのひとり」という感じ(自ら名乗る肩書きは「作曲家/メディアアーティスト/インプロヴァイザー」である)。個人的には《sea song》 *2 、《don't buy sugar/you're my sugar》 *3 、《hyperamplified》 *4 あたりが好きだ。 Wordless アーティスト: Yannis Kyriakides 出版社/メーカー: CD Baby.Com/Indys 発売日: 2006/05/09 メディア: CD この商品を含むブログ (1件) を見る  アマゾンで取り扱っているCDはこちらのみ(2006年のアルス・エレクトロニカ

チック・コリア@テアトロ・ジーリオ・ショウワ

Children's Songs アーティスト: Chick Corea 出版社/メーカー: Ecm Records 発売日: 2000/08/15 メディア: CD クリック : 1回 この商品を含むブログ (5件) を見る  チック・コリアのアコースティック・ピアノ・ソロを聴いた。チケットを買ってからずっと楽しみにしていたのだが、これは「まぁ、このぐらいのお金を払ったらこんなもんかな(A席4000円)」という感じだった。会場は昭和音楽大学が作った新しいホールで、すごく建物の作りが安く完璧に名前負けしていると思った。  また学生のバイト(たぶん?)がスタッフをやっているせいか色んなところが不快。チケットが比較的安かったせいで席は8割ほど埋まっていたけれども、終始どこからかビニールをガサガサ言わせた音が聴こえるのとか致命的である。三分の一が大学の学生だったようだが、まずコンサートマナーの講義とかからやったほうが良い。自分が学ぶものに誠意と敬意を見せろ、と言いたい。  チック・コリアの演奏は「ギャラ、けちったのかなー」とうかがいたくなるほどに、本気からは程遠いものだったが、それでも ビル・エヴァンス スコット・ラファロの「Gloria's Step」はちゃんと聴かせる。古典的なジャズ・スタンダードよりも、バップ以降に生まれた複雑な曲を弾かせるとこの人は本当に映える。逆に「いつか王子様が」などをやらせると非常に退屈である。技巧の展示会みたいに空虚な時間が過ぎていく。  逆に面白かったのは、あまりに期待していなかった彼が弾くクラシックである。この日は「私は家でたまにクラシックも弾くんですよ。フレーズの練習とかアイディアをもらうためにね」と語った後に、アレクサンドル・スクリャービンの初期・中期作品(彼が神秘主義に傾倒する前の、すごく健康的な作品)を、それから自分で書いた《Children's Song》の間に何も言わずオリヴィエ・メシアンの何かを差し込んだ(たぶん《鳥のカタログ》からの一曲だろう)。  「ジャズ・ピアニストが弾くクラシックなんて……」というのは偏見かもしれないが、これが実に酷いものが多い。キース・ジャレットのショスタコーヴィチやバッハなど、狂信的なキース・ジャレットぐらいしか好き好んで聴くものはいないだろう、という出来である

今日のアドルノ

数学的方法は、思考を事物(ザッヘ)にし、また自らそう名付けるとおり、思考を道具にしてしまう。しかしながら、思考が世界に同一化するこのようなミメーシスとともに、今や事実的なものだけが唯一なものになり、神の否定でさえも、形而上学の判決に委ねられるほどになってしまった。  神話は呪術を駆逐し、近代の啓蒙は神話を退けた。それによって我々が手にしたものは、現在我々がその恩恵を受けている科学である。しかし、啓蒙が行ったことはそれだけではない。近代における啓蒙がやってのけた奇跡の源泉とは、元来我々の世界の外部に存在していたはずの理性を、我々の内部へと備え付けたことに見出せるであろう。  外部から内部へ、そこでは理性という言葉が持つ言葉の意味が大きな変化を見せている。理性とは世界を成り立たせる根本的な論理である。世界を超越していたところに存在していたはずの理性が、我々の世界において内在された世界においては、つまるところ「私」が世界の中心となる(私の思考が世界と同一化するのである)。それによって、必然的に世界の外部は消失する。  科学がここまで前進させた駆動力は、そのような理性の変質によってであろう。「私=世界」である時代においては、理性によって実証され得ないものは存在しない(ということになっている)。実証され得ないものが存在しているかもしれない可能性は、恐怖を生む。理性(=世界)の外部に存在しているかもしれない、未だ実証されぬものはこれまで必死に抜け出そうとしてきた神話の世界、呪術の世界へと引き戻すきっかけとなる。科学の駆動力はそのような恐怖に追い立てられたパニックによって生み出されているのだ。  それゆえに科学は厳格なものとなる。この時代においては、神話の時代においてのような鷹揚さは許されない。神話の時代において雷は、様々な意味づけがされてきた。ギリシャにおいてはゼウスが、インドにおいてはインドラが(「ラーマヤーナではインドラの矢とも言われていたがね」byムスカ)、また日本においてはいかりや長介がそれを司る神として君臨していたが、科学の時代ではそのような多義性は抹殺されるのである。そこでは必然的に二分化コードが生じる――実証できるものは「正しい/存在する」、実証できないものは「間違っている/存在しない」というような。 啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫) 作者: ホルクハイマ

今日のアドルノ((気が向いたときに、面白かったフレーズを抜き出してそこで考えたことをスケッチしてみる))

呪術のうちには特定のものとの身代わり可能性がある。  呪術の時代においては「敵の槍や髪や名前の上に何かが起これば、同時にそれは、その敵本人の上にもふりかかってくるはずである」と考えられていた。日本でもそういう類の呪術は存在していた。恨みを抱く相手の髪の毛を藁人形のなかに仕込んで、五寸釘で打つ「丑の刻参り」だとか。藁人形は「特定の誰か」の身代わりである。「人柱」と呼ばれた生贄も同じような呪術だろう。そこで捧げられた「ある人」は「ある村」の身代わりとして災厄を受ける。「ある村」という類例の「代表」として死ぬ。  しかし、科学の時代では違う。「身代わりの可能性」は「普遍的な代替可能性」へと転化する。この変化は言葉の印象として似通ったものかもしれない。でも、全然違う。科学の時代においても「治験」とか「生きた動物の解剖」とか、犠牲にされるものはある。けれども、その犠牲にはいかなる「特別さ」も存在しない。というか、そういう「特別さ」はあってはならないものとして考えられる(特別だったら、実証性はもてなくなる)。「治験」においては、楽してバイト代を稼ごうとする大学生などが「人間の見本」として副作用を受ける。「解剖」でも同じことだ。  呪術の時代に話を戻すと、村の「代表」は誰でも良いわけではなかった。村のために死ぬのは、きっと綺麗で誰の手垢もついていない生娘だったろうし、人の代わりに捧げられる家畜ならその年で一番立派に育った一頭だったろう。それを惜しげもなく河に沈めたり、打ち殺したりする(そんなの『カムイ伝』とか『マッドメン』(諸星大二郎)でしか読んだこと無いけど。)。可愛くない女の子だったり、痩せ細った牛だったりはしない。神聖といえるぐらいに特別でなかったら類型のなかの「代表」にはなれない。  一方、科学の時代では「誰が副作用を受けたか」とか「どの犬が解剖されて死んだか」とか、そんなの全然関係ない(でも、そんなの関係ねぇ!)。どの大学生も、どの犬も「=(イコール)」で結ばれていく。誰が死のうが、そういうのは意味を持たない。科学の時代においては、明日、あなたが車に轢かれて死んだとしても「にんげんっつーのは、このぐらいの速度でぶつかってこられるとしぬんだなぁ(みつを)」という標本として扱われるだけなのだ。 啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫) 作者: ホルクハイマー , アドルノ

現代音楽の不安はネットによって解消されるか

Muziek Centrum Nederland: Home Hedendaags  「ガウデアムス国際音楽週間」 *1 を主催しているガウデアムス現代音楽センターの公式サイト。「俺、全然現代の音楽しらねーじゃん!聴いてるの死んだ作曲家ばっかりじゃねーか!」と思って、作曲科の友達に聞いたら教えてくれた。世界中のいろいろな若手作曲家の情報が寄せられているらしい。ちなみに今年のコンクール受賞者はクリストファー・トラパニという1980年生まれ、アメリカ人。優勝賞金は4550ユーロ(日本円で約72万円)、それと来年の音楽祭で新作の委嘱上演されることが決まっている。 Christopher Trapani, composer  トラパニの公式サイト。こちらでは作品の音源も聴くことができる。受賞作品となった《Sparrow Episodes》はエレキ・ギターを含む16人編成のアンサンブルのための作品で(残念ながらサイトでは途中までしか聴けないのだが)、リズムとテクスチュアの折り重なり方の複雑さ、音楽の非直線的な進み方はユニーク。ギターとエレクトロニクスを好んで用いているようで、まさにそのために書かれた《Really Coming Down》(特に終結部)はかなり良い。ノイジーなドローンのなかで、急にギターがカントリー調のメロディを引き出すところはジョン・フェイヒーみたいに聴こえる。「書かれたものか/録られたものか」。そのような違いしかアカデミックな現代音楽と非アカデミックな現代の音楽を隔てるものはないのかもしれない、とか考えてしまう。他の作品には、リズムから徐々にジャズ/ブルースのフレーズへと変容していくものがあり、複数の層から変化が生まれ全体が変化していくところに何かアメリカ的なものを感じなくも無い。チャールズ・アイヴズ(あとやっぱりジョン・フェイヒー)の音楽の下地にあった「アメリカの原風景」と似たようなものが聴き取れる気がする。  つい先ほどは「Youtubeでベリオが聴ける!」と驚いていたばかりだが、本当にデビューしたてで作品数が10曲にも満たない若手作曲家の作品が「名前を知って、すぐに聴ける」という状況が既に実現されていることに驚いてしまった(インターネットってすげぇ!って久しぶりに思ったよ)。こういう風に作品を発表していて「すぐに聴ける作曲家」が増えすぎちゃっ

ベリオがネットで観られる時代に感動

 イタリアの作曲家、ルチアーノ・ベリオの大問題作《シンフォニア》より第3楽章の映像(指揮はサイモン・ラトル)。この部分は、マーラーの交響曲第2番《復活》を主なパロディの対象としながら、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベートーヴェン、ドビュッシー……などの作品を細切れにして繋げたコラージュになっており、それが「作曲行為と呼べるのか」というスキャンダルを呼んでいる。  映像は、引用元となった作曲家の写真が重ねられ、音楽を解説するとものとなっているのだが、視覚的な情報量よりも多層的な音響の方がはるかに情報量が多い。ベリオを語る際のキーワードとして「創造的な編曲」というものが挙げられようが、《シンフォニア》はそれが最も激しい形で実行されたものだろう。過去の作曲家を素材として用い、また最後の作品となったプッチーニの《トゥーランドット》の補筆という仕事は「過去に存在したかもしれない(が実際には存在していない)もの」を発掘した作業だったとも言える。  また、ベリオには「超絶技巧」や「特殊奏法」といった本来なら「作品を演奏するためのもの」を抽出して作品化してしまったセクエンツァというシリーズがある(映像はトロンボーンのための《セクエンツァ》第5番)。トロンボーンを演奏しながら、奏者はその音色を声によって模倣し、その模倣はいつしか「WHY?」という問いかけの言葉へと変化していく(何故、この演奏者がこのような格好をしているのかをこっちが問いかけたいくらいなのだが)。  こちらはソプラノ・サックスのための《セクエンツァ》第7番(元はオーボエのために書かれたものが後に編曲されたもの)。フラッタータンギング、重音(倍音を分離させることで複数の音を聴かせる)、圧縮されたような高速のフレーズは、演奏されることで初めて楽譜から浮かび上がる身体性を聴覚に刻み付ける。  ウンベルト・エーコはルチアーノ・ベリオを「声の作曲家」と評した。その言葉どおり、ベリオは現代の作曲家には異例なほど声楽のための作品を書いていた(それは伝説的なヴォイス・パフォーマー、キャシー・バーベリアンと結婚してのも影響しているのだろう)。しかし、この簡潔な言葉も《シンフォニア》の音響のように多層的に読むことができるだろう――「過去」からの発掘は、この世に既に存在せず声を発することの出来ない作曲家の声を現代に甦らせている。また《

後期ロマン派の楽器たち

 18世紀から20世紀前半の西洋音楽界の大きな流れには「拡大」という傾向が見られます。例えば、鍵盤楽器の音量の拡大。ピアノが開発されるまで主流だった鍵盤楽器、チェンバロ(ハープシコード、クラヴサン)の弦を弾く部分には鳥の羽の軸となっている部分が使用され、その音量は今のピアノとは比べ物にならないほど小さなものだったそうです。それがもっと大きな音量の出るピアノにとって変わられ、その後ピアノはどんどん大きな音が出るように改良が加えられていきました――ここには宮廷や屋敷といったパーソナルな空間で演奏される用の楽器が、コンサートホールというさらに大きな空間(市民的な公共空間)での演奏用に改造されるという「時代の要求」が読み取れます。  拡大したのは音量だけではありません。オーケストラの規模も拡大していきます。奏者の数はベートーヴェンの時代からマーラーまでで倍以上になり、また仕様される楽器も増えていきました。驚かれることかもしれませんが、今ではとてもポピュラーな木管楽器であるクラリネットもオーケストラで使われ始めたのはモーツァルトの時代に入ってからです。どのような楽器が使用されるか、という事柄に関しては19世紀に入って大体決まってしまうのですが、そこで変化を止めないのが近代人の性。中には「こんな楽器を作って欲しい」と楽器製作者に開発させた人もいました。  世界に存在する珍楽器愛好家の皆様、こんにちは。申し遅れましたが私、mkと申します。世界のどこにも存在しない妄想の博物館、珍楽器妄想博物館の館長を務めております。今回はそのような時代の変遷のなかでオーケストラのなかに加えられた珍しい楽器に焦点を当て、皆様の知的好奇心をくすぐっていこうと思います。  作曲家の要求によって開発された楽器の代表格と言えばこの「ワーグナー・チューバ」。名前の通り、リヒャルト・ワーグナーによって開発された金管楽器です。チューバと言えども、担当するのはホルン奏者(演奏中に持ち替える)。使用していたのはワーグナーだけではなく、むしろワーグナーの熱狂的信奉者であったブルックナーの方が使用していた作曲家として有名かもしれません。  映像はブルックナーの交響曲第7番(演奏はクラウディオ・アバド/ルツェルン祝祭管弦楽団)。2:45あたりから荘厳な響きを聴かせてくれますが、これは結構「玄人好みするタイプ」の音色であろう

ジェントル・ジャイアント動画集

 70年代イギリスのロック・バンド、ジェントル・ジャイアントのライヴ動画。以前にもまとめて紹介しましたが、新しい動画がアップされていたことをお知らせします(以前のものは多くがリンク切れ)。音質も画質も以前にアップされていたものとは段違いで良い。最高です。 ジェントル・ジャイアント(Youtube)  これなんかバトルズみたいだもんなー。すげー。

キース・ジャレット『残氓(ざんぼう)』

残氓 アーティスト: キース・ジャレット・クァルテット 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック 発売日: 2002/09/19 メディア: CD クリック : 2回 この商品を含むブログ (3件) を見る  私の実家はほとんど誰も音楽を聴かず、また本を読まない文化的に不毛な家庭だったのだが、何故か高級かつ巨大なステレオ装置と何枚かのレコードがあった(父親の所有物だったのだが、別に父親も音楽が好き、というそぶりを見せなかった。たぶんそういうものを買う世代だったんだろう、と思う。読みもしない百科辞書をリビングに飾るみたいに)。高校の頃、誰も使わないし触りもしないその機械を勿体無く思った私はMDのデッキを買って、それでウチにあったレコードを片っ端からデジタル化していった。キース・ジャレットの『残氓』もそのなかの一枚だった。これを先日、実家に帰ったときに聴き直した。  キース・ジャレットといえば、未だに「好きなジャズ・ピアニスト」のランキングでトップに並ぶほどの絶大な人気を誇る人として有名である。が、スタンダード・トリオとかソロでのインプロヴィゼーションの人気が集まっている一方で、1970年代に彼が「前衛派」に接近しようとして製作したアルバムの大半が完全に黙殺されてしまっている気がする。マイルスの80年代以上に「誰も触れないし、誰も聴かないもの」として扱われている。  私個人としては、この頃のキース・ジャレットのアルバムも「聴ける」。少なくとも80年代マイルスみたいに「痛いなぁ、キツいなぁ」という感想を抱かない。この頃のキース・ジャレットは明らかに「魔術的なアフリカン幻想」や「神秘主義」への傾倒が感じられ、とにかくそこに「時代」を感じてしまうけれど、それは「痛い」というほどのものではない。だからと言って「これは出るのが早すぎたんだ……!」という驚きも無い。  けれども、やっぱり「聴ける」。聴けてしまう。結局それはキース・ジャレットという人の音楽性って装いをどんな風に変えても、根本的な部分が変わっていないからではないだろうか、と思う。この人の場合、独特なリリシズムと独特なロマンティシズムが根底に備わっていて、異教的なジャズをやろうが、スタンダードをやろうが、ソロでウーウー唸りながら即興をやろうが、頑なに「美しくあろう」という部分に変えようとしない

阿部和重『グランド・フィナーレ』

グランド・フィナーレ (講談社文庫) 作者: 阿部和重 出版社/メーカー: 講談社 発売日: 2007/07/14 メディア: 文庫 購入 : 3人 クリック : 76回 この商品を含むブログ (82件) を見る  ぼんやり上手さん( id:ayakomiyamoto )の日記でずいぶん前に阿部和重が面白く紹介されていたのが、ずっと頭のなかにあったんだけれど、機会を逃し続けていてやっと読むことができました。面白かったです!  この小説が面白く読めたのは、主人公視点で語られる地の文と他の登場人物が語る会話文との文体に大きな差があったからだろう、と思います。会話文はとても生き生きとしていてすごくリアリティがある文章で成り立っているのも(最近の小説を読んでいない)私には新鮮でしたし(村上春樹の会話文にはこういうリアリティはありません)、また地の文のインチキな批評文くさい、はっきり言って過剰な、修飾の用い方も面白かったです。例えば、こういうの。 その お宝に宿ったマルチメディアの精霊 は、悦びや思慕の情を引き出すことよりもさらに熱心に、わたしに対してある残酷な忠告を囁きかけてくるのだった。  「マルチメディアの精霊」――これはナボコフが男性器を「情熱の勺」(『ロリータ』大久保康雄訳)と表現したのを読んだとき以来の個人的ビッグヒットとなったわけですが、その「過剰さ」が主人公の「思い」が並々ならぬものであることの演出として上手く作用しているように思いました(そういえば『ロリータ』も『グランド・フィナーレ』もロリコンを取り扱った小説だ)。それから、その冷静な饒舌さは主人公の自分勝手な「他者観」も裏付けるような気がします。  主人公の他にも、とにかく自分勝手な人たちがいろいろと出てくる小説で、それぞれの「理解のされなさ」の構図も面白いです。例えば第一部のクライマックスとなっている、Iというクラバーの女の子が主人公から自分の性癖とそれにまつわる話を聞きだす、というシーンに関してもそう。その前のシーンで、Iは「悲惨だと思うけれど、自分ではどうしようもないし、大した悩み事でもないこと」の一例のようにアフリカの紛争の話をしていて、その会話が本当に「雑談」っぽくて酷いのだけれど、主人公の告白を聞いて「私は軽蔑した」と面と向かって主人公を非難する。この身勝手な正義感の駆動の仕方は、第二

坪口TRIO+2@新宿ピットイン

ANDROGRAFFITI アーティスト: 坪口昌恭 出版社/メーカー: ewe records 発売日: 2006/01/20 メディア: CD クリック : 3回 この商品を含むブログ (10件) を見る  DCPRGで刺すようなキーボードを弾いていた坪口昌恭のトリオを聴きに行った(他のメンバーは菊地雅晃、藤井信雄。この日はエレクトロニクスでNUMB、ヴィブラフォンで三沢泉が参加)。お客さんはピットインの椅子が適度に埋まるぐらい。明日の東京ザヴィヌルバッハがソールドアウトしているのを考えると「菊地成孔の人気って今すごいんだなぁ」と思ってしまう、それぐらい意外なほどの「適度な客入り」。セロニアス・モンクの曲とオリジナルの曲を演奏しているのを聴いて「こういうジャズの延命法もあるのだなぁ」とか思った。  今、東京には色んなジャズの「形」がある。未だにバップをやっている人もいる。未だにフュージョンの人もいる。未だにフリーの人もいる。時間が止まっているかのような状態で(それ自体は悪いことではない)ジャズが演奏されている一方で、新しい「ジャズ」を生み出そうとする人たちもいる。例えば、「音響派」と「ジャズ」を組み合わせたジャズ。あるいは、70年代マイルスの音楽をよりソフィスティケイトしたジャズ(・ファンク)。坪口TRIOのスタイルもこの「新しい方のジャズ」に分類されるだろう。  だが、坪口TRIOの「新しい方」のなかでの存在感というのもかなり独特だ。一聴して、かなりオーセンティックなジャズ、特にフリー以降の「新主流派」的な、フォーマットが敷かれている。目新しいものは特に存在しない。NUMBが客席の一番後ろで機材を操作し、リアルタイムでピアノの音を変調させていたとしてもその「ジャズ的」な形は揺るぎない。この「揺るぎなさ」が、大友良英や菊地成孔の「ジャズ」とは大きく異なっているように思える。もっとも、大友のジャズは「時代と共に変容する音楽」として、また菊地のジャズは「セクシーで高級な音楽」として、共にジャズ的ではあるのだが。  坪口TRIOのジャズはまるで「ジャズの巨人」が、現在のトレンドと遊んでいるかのような、そういう印象を受ける。エレクトロニクスなどの機材面においても、ポリリズムなどの音楽的な語法においても。もしかしたらハービー・ハンコックやチック・コリア、それから

Kanye West『Graduation』

Graduation アーティスト: Kanye West 出版社/メーカー: Roc-a-Fella 発売日: 2007/09/11 メディア: CD クリック : 34回 この商品を含むブログ (55件) を見る  CANのカヴァーをやっててびっくりした。熊が可愛くなくなった。

アカペラDE……

 The Carleton Singing Knightsというコーラス・グループによるゾンビーズのカヴァー。リードもコーラスもあんまり上手くないのだが、その心意気を評価したくなる歌。まぁ、この程度なら他にも似たような人たちがいそうだけれど、このグループ、他にも色々カヴァーをやっていてその選曲が雑多過ぎて面白い。  ジャスティン・ティンバーレイクの「My Love」。音質の悪さも作用して、非常に何をやってるのかよくわからなくなっている。これ「ジャスティン・ティンバーレイクの曲をやりました」と言える度胸も良いです。  ベン・クウェラーの「Magic」。果たして彼らのコンサートを100%楽しめる人は何人いるのだろう……と考えさせられてしまう。大体、ベン・クウェラーってカヴァーしてウケを狙えるほど人気があるんだろうか。  で、ダフト・パンクである(観客席から大歓声!)。選曲が既にプログレてる。