スキップしてメイン コンテンツに移動

自分だけの音を!――様々な自作楽器について



 「“自分だけのスタイル”を確立すること。それがあれば少なくとも10年は食べていける」ということを書いていたのは、村上春樹だったと思います。小説の世界を眺めてみれば、たしかに有名な作家というのはちゃんと「自分のスタイル」を確立してモノを書いていることが確認できます(もちろん毎回手を変え品を変え……というタイプの作家もいるわけですが)。もし、誰かが小説家になりたいと思ったら、ストーリーを考えることよりも、むしろ「自分だけの言葉」、「自分だけのイディオム」を見つけることがデビューへの近道なのかもしれません。


 これは小説というジャンルに限らず、音楽でも同じようなことが言えるでしょう。しかし、音楽において「自分のイディオム」を身に付けることは、小説の世界よりも難しいことのように思われます。音楽を音楽たらしめるための規約には、和声法、対位法、器楽法……といった様々なものがあり、単純に数的なものから考えても小説より多いのです。そのルールのなかで「自分のイディオム」を考えようとすれば、自ずから「先人とかぶってしまう」という現象が生まれてきます。音楽家たちの努力というのは正に「君の音楽はまるで○○のようだね」という批評的な言葉からの逃走(あるいは闘争)なのかもしれません。


 どうすれば簡単に「自分だけのイディオム」を作ることができるのか。ここで発想を変えてみましょう。何も既存の規約に縛られる必要はないのです。そもそもの「規約」から自分で作れば、それはそれだけで「自分だけの音楽」、しかも「新しい音楽が生まれる可能性」を作ることになります。12音技法(シェーンベルク)、移調の限られた旋法(メシアン)、コブラ(ジョン・ゾーン)……20世紀になってから生まれた新しいイディオムあるいはルールにはこのようなものがあります(イヴァン・ヴィシネグラツキーが考案した4分音階も含まれるでしょうか。オクターヴをさらに4分割、48個の音階に)。


 前置きが長くなってきました。そろそろ、本題に入りましょう。「自分だけのイディオム」を作ること、それは「自分だけの音」を作ることと近い意味を持っています。しかし、シェーンベルクもメシアンもジョン・ゾーンも最も単純な意味で「自分だけの音」を作り出したわけではありません。何故なら彼らは既存の楽器を使って「自分が考えた規約」を施行した音楽家だからです。本当に「自分だけの音」を作ろうとするならば、自分だけの楽器を作ることから始めなくてはならないでしょう。


 世界に存在する珍楽器愛好家の皆様、こんにちは。申し遅れましたが私、珍楽器妄想博物館の館長を務めております、mkと申します。先ほど申し上げたとおり「自分だけの楽器を作ることから始めなくてはならない」などとお聞きになられて、「そんなヤツがいるのか?」と思った方もいらっしゃると思います――しかし、それが確かに存在しているのです。今回はそのような自作楽器を使った音楽家に焦点を当ててみようと思います。



D


 まずは、バラエティなどにも出演しお茶の間の人気者となっている明和電機。彼らの活動は、音楽という領域に限られたものではありませんが、全て自作楽器で音楽をやってしまうところはまさに「オリジナルな音楽家」と呼ぶことができるでしょう。100ボルトの電流を利用して、打ち鳴らされる金属類の音響はイタリア未来派とも共鳴するように思えます。



D


 サックスを模して作られたヤンキークラクション楽器、武田丸が咆哮する「ツクババリバリ伝説」も名曲。激しい打撃音がブラストしているのも素晴らしいですね。工業製品をそのまま楽器として用いてしまった、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンを思い出してしまう。



D


 彼らの活動を追った映画『半分人間』からの映像。若かりし頃のブリクサ・バーゲルト(バンドのフロントマン)のが非常にカッコ良いですね。パンクとグラムが混合して、腐敗してしまったような独特な歌声。ここ何年かで急激に太ってしまった彼ですが、体重と比例するように粘性を増していてるのが素晴らしい。


 さて、日本、ドイツのメジャーなアーティストを紹介してきました。次はアメリカの音楽家に参りましょう。アメリカではジョン・ケージという大物がプリペアード・ピアノという楽器を発明したことが有名ですが、ハーリー・パーチはもっとすごかった、ということは余り知られておりません。



D


 こちらはハーリー・パーチの活動を追ったドキュメンタリの映像。パーチは独学で音楽を学び、生涯自作楽器を作り続け(現在にも200以上の楽器が現存しているそうです)、しかもほとんど誰にも影響を与えていない……という偉大な音楽家です。明和電機やノイバウテンとは全く規模が違い(映像で紹介される楽器の外見の奇怪さも群を抜いている……)、尊敬の念を抱かざるをえません。珍楽器愛好家の方々には、こちらにあがっている彼の関連映像を全てチェックすることをオススメいたします。「ハーリー・パーチは、20世紀の音楽史で最もオリジナルな存在だ」ということを立証するような感動に値する映像群。


 彼のCDは「現代音楽」の棚に置かれていますが、「ハーリー・パーチ」のコーナーを作って欲しいぐらいに独特。和声法、平均律とはまったく違った音の組織はもちろんのこと、彼の音楽はコンサート・ホールで演奏されるために作られていない……というところも含めて、良い意味で孤立しきった音楽家でした。


 ちなみにケージもパーチもカリフォルニア出身なのですが、こういう人物が生まれてきやすい風土なのでしょうか……。



D


 今回は大友良英の自作7弦ギターの演奏で、お別れ。またのご来場をお待ちしております。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か