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プラトン『国家』、と管理社会

国家〈上〉 (岩波文庫) 作者: プラトン , 藤沢令夫 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 1979/04/16 メディア: 文庫 購入 : 11人 クリック : 65回 この商品を含むブログ (96件) を見る 国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8) 作者: プラトン , 藤沢令夫 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 1979/06/18 メディア: 文庫 購入 : 8人 クリック : 35回 この商品を含むブログ (54件) を見る  プラトンの師であったソクラテスの哲学問答を記した『国家』はとてもシンプルな本である。内容は、といえば、ソクラテスのもとに集まる者が彼に対して自らの疑問をぶつけ、そして彼が回答する。また逆に、ソクラテスが彼に語りかけるものに対して疑問をぶつける場合もある。ひとつの回答からは、また新たな疑問が生まれ、それに対しての回答があり……というやりとりが上下巻に渡って繰り広げられるのである。対話はらせんのような軌跡を描いて運動していく。人によっては「この議論はいったいどこに向かっているのだろう……」という内容を退屈に思われるかもしれない。  社会学者の北田暁大はこの本について「根源的な質問(例えば、『何故、人を殺してはいけないのか』など)に対してはこのような方法で考えなければ、答える方法がない」というようなことを言っていた。北田の言葉をまるごと借りてしまうようになるけれども、私もそのように感じる。しかし、そのような方法を用いて、丁寧に丁寧に議論を重ねたとしても、答えることのできない議論の終着点があること(それは世界の根源的な未規定性、と言い換えることができる)も改めて感じた。  議論の主題はタイトルにもあるように“国家”である。が、私はその副主題ともいえる「正義とは何か?どうあるべきか?」という問題について惹かれながら読んだ(ちなみに『正義』は前1世紀に編纂されたプラトン全集で、この本の副題として添えられている)。  信念のようにソクラテスは「正義は必ず、不正よりも“善いもの”である」と繰り返し語る。しかし、「何が“善いもの”で、何が“悪しきもの”か」と言った問いに対しては上手く答えられていない。「滅ぼしたり損なったりするものはすべて悪いものであり、保全し益するものは善いもの」というだけである――この“答え”が便宜的

ザッパはゲンダイオンガクか

Yellow Shark アーティスト: Frank Zappa 出版社/メーカー: Zappa Records 発売日: 2009/11/17 メディア: CD クリック : 1回 この商品を含むブログ (7件) を見る  最近、フランク・ザッパのラストアルバムである『The Yellow Shark』を聴き直して「ザッパは現代音楽との関連が云々……と言われるけれど、オーケストラを使っているだけでどこが“現代音楽”だったんだろう……」と思いました。「オーケストラを用いる=前衛的・革新的」という語りはロックとクラシックのヒエラルキーを感じさせる現象であると思います。ザッパとは逆の例になってしまいますが、芸術的なコードによって取り扱われるような「交響音楽」のなかに通俗的な要素が含まれることは、何もマーラーの19世紀末まで待つことなく、ブラームスやショパン、ドヴォルザークなどによっても行われたことでした(ハンガリー舞曲、ポーランドの民俗舞踏を基にしたピアノ曲、スラヴ舞曲)。ジャンルを乗り越える、という試み自体にはなんの新しさもない……ように思われるのです。  よって、オーケストラを用いたロックによって「(ザッパの試みが)クラシックという領域を乗り越える」というような言葉は、むしろ語れば語るほど「クラシック(高級な芸術)とはロックにとって永遠に乗り越えるべき対象」として刻み付けられてしまうような言葉のように感じます。未だに「オーケストラと競演」で大騒ぎしているのは一部のハイテクメタルぐらいでしょうから、はっきり言ってどうでも言いのですが。  しかし、ザッパの遺作を聴いてひとつ思うことは「あと20年早く管弦楽法と対位法を学んでいたらジョン・アダムズを超えるぐらいの作曲家になっていたであろう」ということ。作品を聴いていると、あまりに旋律的な要素に頼りすぎ、音が薄く(生音が大きいこと以外は)ほとんどオーケストラを使用する意味がなくなっているように思います。ただし、アルバムの前半で組曲的に演奏される部分は、音の厚みが練られていて素晴らしい。パーカッションの音によって厚みのある音に聴こえさせているだけかもしれませんが、少なくとも「これ、ジョン・アダムズの曲だよ」と言って聴かせたら信じてもらえそうな感じはします。あと、このアルバムにホルン奏者としてシュテファン・ドール(現・

相対化される音楽

 相変わらずWILCOの『 Sky Blue Sky 』の新譜を聴いているところで、聴けば聴くほど素晴らしいアルバムだなぁ、と染み渡るようだ。シカゴっぽい音を指向していた前二作から、ポップなものへと回帰していた感じは、日本で言うとくるりも似た道を辿ってきてるようにも思う(っていうか今くるりの『 アンテナ 』を聴くとかなりWILCOっぽく聴こえる、ってだけでそんな風に考えてるんだけど)。  聴き続けていて気がつくことは、今回のアルバム製作時に加わった新メンバーがバンドの音楽に極めて不思議な効果を与えている、ということ。とくにギターで入ったネルス・クラインがすごい。私はこの人のことを全然知らなかったんだけど、調べてみるとフリー・ジャズ出身の人だそう。「どうりで……」と思うのは、この人のギタープレイがバンドの持っているタイムと全然違う感じで異物感満載に響いているところである。  バンドがロックらしいスクエアなビートを刻んでいるところで、ネルス・クラインの浮遊感のあるタイム感でソロをとる時(テクニックがありすぎて自由にやりすぎてる、みたいに聴こえる)、「バンド対ネルス・クライン」というような相対的関係が生まれているのがとても興味深い。くるりに渡辺香津美 *1 が加入したらこんな感じになるんじゃなかろうか……そんなの誰が喜ぶかわかんないけど、見てみたい(見た目的にも面白いから)。  渡辺香津美の映像を探していたら出てきたとんでもない映像。タンザニアのバンドと日本のジャズメン、あと林英哲のセッションの模様だそう。ジャズ陣営のメンツが山下洋輔、渡辺香津美、バカボン鈴木、そして今をときめく菊地成孔(1992年の!髪もフサフサ!!)だというのだから驚いてしまう。山下洋輔のピアノがアフリカンなリズムと異常に馴染んで響いてくるのに、渡辺香津美がソロをとる時の違和感はなんだろう、と思う。黒人の国に、一人日本のセールスマンが迷い込んできたような、そんな図。  話が大幅にそれてしまったけれど、WILCOの新譜には「こういう新メンバー加入のさせ方もあるのだなぁ」と感心させられている、ということが言いたかった。 *1 :ところでこのギタリスト、ジャズ界隈では今一番扱いが微妙な人になってる気がする

ジョージ・マーティン・プロダクションズ

ジョージ・マーティン・プロダクションズ アーティスト: オムニバス , シラ・ブラック , デヴィッド&ジョナサン , ビリー・プレストン , マット・モンロー , シャーリー・バッシー , ポール・マッカートニー&ウイングス , ザ・ビートルズ , アメリカ , ジョージ・マーティン・オーケストラ , トミー・ライリー 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン 発売日: 2007/03/28 メディア: CD クリック : 12回 この商品を含むブログ (2件) を見る  先月の『ストレンジ・デイズ』を読んでずっと「買わなきゃ……」と思っていたシロモノ。THE BEATLESのプロデューサーとして有名なジョージ・マーティンのプロデューサー生活50周年を記念した6枚組のアルバムを、日本向けに1枚に編集しなおしたコンピレーションアルバムである。  BEATLES関連の曲が多くて、彼らのアルバムを全部持ってたら半分以上は「持ってるよ」という内容なのだけれども、なんか音が太くなってて新鮮に聴こえる。特にジョージ・マーティン・オーケストラ名義での作品(『Yellow Submarine』に収録)の音はまるっきり生まれ変わっていて、新録音かと思ったよ……と思ったら98年に製作された引退記念盤からの収録らしい。いや、でもこれはちょっと聴く価値あり(ラロ・シフリンに匹敵するカッコ良さ)。  あとはBEATLESの初期にレノン=マッカートニーが他アーティストに提供した楽曲なんかが聴けるのは良いです。曲がすごい良くて、改めて「ジョン・レノンとポール・マッカートニーって天才だなぁ!」と思った。特にビリー・J・クレイマー&ダコタス(BEATLESの弟分みたいな扱いのバンドだったらしい)に提供された「Bad To Me」、「I'll Keep You Satisfied」という2曲はほんとに素晴らしい。あとはビリー・プレストンによる「Get Back」のカヴァーが、ものすごいファンク色にアレンジされててこれもなかなかです。でも、ホントに欲しかったのは怪優ピーター・セラーズが「A Hard Days Night」を朗読する、という意図がよく分からない音源だったのだけど。  BEATLES関連以外ではジョージ・マーティンが関わった映画音楽の主題歌(『0

WILCO『Sky Blue Sky』

Sky Blue Sky アーティスト: Wilco 出版社/メーカー: Nonesuch 発売日: 2007/05/15 メディア: CD 購入 : 1人 クリック : 6回 この商品を含むブログ (39件) を見る  いかにも神経質で繊細そうなNYのオルタナの雰囲気と、骨太感モリモリの(ややイモっぽい)アメリカン・ロックが奇跡的な融和を果たしているのがWILCOというバンドなのだと思う。新譜の『Sky Blue Sky』も素晴らしかった(オリジナルアルバムとしては3年ぶりで、日本盤の発売が待ちきれず輸入盤を購入)。豊かなメロディがザラッとした渋い質感の音でもって波のように押し寄せてくる感じが堪らなく良い。これは泣けちゃうな。なんかTHE BANDと同じぐらい泣きのツボを押さえてる、と思った。「男が泣けちゃうロックバンド」って今、WILCOぐらいしかいないんじゃないの?  映像はアルバム発売に先立って公開された新曲「What Light」のライヴ。「実験的であるか」、「新しいサウンドに向かっているか」といった評価基準があると思うんだけれども、WILCOを聴いていると結構そういうのってどうでも良いよなぁ、なんてことを思う。WILCOは古いけど、実に新しい。これには「ロックの王道」を突き進んでる感じさえある。音楽から瑞々しさが欠けずに伝わってくる瞬間が味わえる(なんたってWILCOはリアルタイムで活動しているバンドだから)のもとても喜ばしい。

ピーガブ化するビョーク

 ビョークの新譜『Volta』を試聴したっす。 Volta アーティスト: Bjork 出版社/メーカー: Atlantic / Wea 発売日: 2007/05/08 メディア: CD クリック : 17回 この商品を含むブログ (80件) を見る  アルバムを買ってないワスみたいな分際で、こんなこというのもなんだケド、これって完全にピーター・ガブリエルじゃんなぁ!最近80年代音楽の再評価の高まりは感じていたケド、まさかピーガブまで引き合いに出されてくるとは思ってもみなかったよ。そのうち、ビョークが髪型を逆モヒカンにして、ユッスー・ンドゥールとデュオをやりはじめるのではと気が気じゃなかったのはワスだけじゃないはず。  そんなことがあってまたピーガブを聴きなおしたり、PVを観なおしたりしたんだケド、何をやってもピーガブってすごい際どくて、そこがまた良いんだよねぇ…。大ヒットした「Sledgehammer」もこんな感じ…。  いきなり精子の映像から始まっちゃうんだから、正気かぁ!!?って疑いたくなるっすよ。この気持ち悪さはクリス・カニンガムにも匹敵すると思うんだよね…。  ワスがなんとなく嫌なのは「向かっているところは一緒なのに、言い方の違いだけでなんとなくオシャレな感じになる」ってところでねぇ…。聴いた感じはピーガブの『 IV 』なのに、「最先端」風に売り出されてるところが納得いかないっす。ワスはこう見えても古典とか古いモノが好きなんだケド、こういうやり方を見ていると単純に「先人にもっと敬意を払え!」って言いたくなるですよ。  ジャケットの写真はデイヴィッド・リー・ロスみたいだしさぁ…。 Eat 'em & Smile アーティスト: David Lee Roth 出版社/メーカー: Warner Bros / Wea 発売日: 1994/08/04 メディア: CD 購入 : 1人 クリック : 2回 この商品を含むブログ (17件) を見る  ワスは敬意を払ってるよ( id:throwS さんに)。

最もザッハリッヒなジャズ

Miles Smiles (Reis) アーティスト: Miles Davis 出版社/メーカー: Sony 発売日: 1998/10/08 メディア: CD 購入 : 3人 クリック : 3回 この商品を含むブログ (19件) を見る Esp (Reis) アーティスト: Miles Davis 出版社/メーカー: Sony 発売日: 1998/10/08 メディア: CD 購入 : 2人 クリック : 8回 この商品を含むブログ (16件) を見る Nefertiti (Reis) アーティスト: Miles Davis 出版社/メーカー: Sony 発売日: 1998/10/08 メディア: CD 購入 : 1人 クリック : 8回 この商品を含むブログ (38件) を見る Sorcerer アーティスト: Miles Davis 出版社/メーカー: Sony Jazz メディア: CD この商品を含むブログ (6件) を見る  パソコンが壊れていてiPodの中身を入れ替えることができなかった間、6マイルス・デイヴィスが60年代に録音した4枚のアルバム(壊れる直前にパiPodに入れていた)を繰り返し繰り返し聴いていた。これはとても実りが多い経験だったと思う。聴けば聴くほど「これはすごい音楽だ……」と思わされるようなアルバムってそんなにない。  これらはいわゆる「第二期黄金クインテット」と呼ばれる時期のもので、マイルスが集めてきた若いミュージシャンの演奏もすごいのだが、マイルス自身もバリバリである。ウェイン・ショーターが空間を切り裂くような速いパッセージで常にエンジン全開で攻め込んでくるのに対して、マイルスは緩急をつけて「ここぞ!」というときにビシバシとカッコ良いフレーズをキメてくる。この音楽の運び方が絶妙すぎる。  もうひとつすごいと思うのは、マイルスのアルバムなのにほとんど彼自身によって書かれた曲がないこと(4枚の合計26曲中、マイルスは2曲しか書いてない)。想像すると、大部分をテオ・マセロと組んで二重プロデュース状態で製作を進めていたんだろうけれど *1 、音楽のまとめ方が素晴らしすぎて感動してしまうばかりだ。  「マイルスって指揮者とか向いてたんじゃないかなぁ」などと思う。この頃のバンドってベルリンフィルみたいだし、

レイモンド・カーヴァー『ファイアズ(炎)』

ファイアズ(炎) (村上春樹翻訳ライブラリー) 作者: レイモンドカーヴァー , Raymond Carver , 村上春樹 出版社/メーカー: 中央公論新社 発売日: 2007/05 メディア: 新書 購入 : 1人 クリック : 6回 この商品を含むブログ (21件) を見る その夜の十一時、私はまたカウチに寝支度をした。こんどはスチュアートは何も言わなかった。私をじっと見て、唇の裏で舌を丸め、それから廊下を歩いてベッドルームに消える。(『足もとに流れる深い川』より)  これまでそれなりに本を読んできたけれど「唇の裏で舌を丸め」という描写に出会ったのは初めてだったと思う。これが登場人物の苛立ちとかモヤモヤした感じとかがグッと迫ってくるような描写であったから、とてもびっくりしてしまった。レイモンド・カーヴァーという人の細やかで現実的な想像力はものすごいものがあるなぁ、と感じる部分である。言われれば「あぁ、わかる。そういうクセがある人っているよな」と思うけれど、言われない限り人が「唇の裏で舌を丸め」ているしぐさを頭のなかで思い浮かべることなんてないもんな。  この本に収録されているエッセイのなかで、カーヴァーが自分の、というか短編小説家の“小説作法”について書いているところがある。曰く、短編小説家の仕事とは日常のなかで「『ちらっと捉えたもの』に自分の有する力の一切を注ぎ込む」ことなのだそうな。それは明確な文章を以ってして描かれなければならない。そのことが細部に生命を与える。あまりに正確な文章は「時には素っ気なく響くかもしれない。しかし案ずることはない。正しく使用されていれば、それらの言葉はあらゆる音を奏でることができるのだ」――とカーヴァーは言う。何故、彼が「唇の裏で舌を丸め」と書けたのか、これらのエッセイは充分に納得できる答えを提供してくれている。  ところで、こういうカーヴァーの想像力は、トマス・ピンチョンのような作家が持つ想像力とまったく正反対の位置にいるのでは、などと思うのだがどうだろうか。書いている作品の内容もまったく異なるけれど、そこにはミクロへと収斂されていくまなざしと、マクロへと拡大していくまなざしがあるように思われる。もちろん、ピンチョン(あとスティーヴ・エリクソンとか)は後者のほうだ。  ピンチョンの短編小説が「あんまり……」というのを考

ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』

意味の論理学〈上〉 (河出文庫) 作者: ジルドゥルーズ , Gilles Deleuze , 小泉義之 出版社/メーカー: 河出書房新社 発売日: 2007/01/06 メディア: 文庫 購入 : 3人 クリック : 21回 この商品を含むブログ (50件) を見る 意味の論理学 下 作者: ジルドゥルーズ , Gilles Deleuze , 小泉義之 出版社/メーカー: 河出書房新社 発売日: 2007/01/06 メディア: 文庫 購入 : 2人 クリック : 6回 この商品を含むブログ (32件) を見る  「僕らって言葉の意味とかを確定的なものとして、ひとつに定めようとしてしまいがちだけど、実際それって本当は不可能なんだよね~」という感じの話を、ルイス・キャロルとかジェイムズ・ジョイスとかから導き出そう、というような感じの本なのだと思う(ホントか)。頑張って読んだけれど、ここ何年かで最も「はぁ~、なるほどなぁ……。おもしれ~」という感想を抱けなかった本でもある。どうしたものか。  その感動の無さは「なんだこれ!わかんねぇ!!」という苛立ちとは異なったものだ、と思う。これは、教養高くてとても難しい本だ。特にラカンや言語学の術語が頻発するところとか特に。それらに関して私は門外漢も甚だしいところなのだが、しかし“なんとなく”で言いたいことが分かる(分かんない具合で入ったら最近ではキルケゴールのほうが分からなかった……)。でも、そこで私が“理解するもの”は、ドゥルーズの言いたいこと、というよりも「あれ?これってアドルノもこんな風に言ってるんじゃないか??」という感じなのだ。だから、私にとって、ドゥルーズの言っていることは既にアドルノから学んでいたもの、として感じられてしまった。  もちろん、ドゥルーズとアドルノでは違う。けれども、前者がカバン語を語るとき導き出そうとするものと、後者がヘーゲルの弁証法(あるいはベートーヴェンの《英雄》)から導き出そうとするものにはすごく重なるものを感じる。誠実で勤勉な人間であれば、似てる、けど違う、じゃあどこが異なっているのか、についてテキストをもっと熱心に読むべきだろう。っていうか、私もするべきなのだ、たぶん。アドルノ、という差異に留まり続ける思想家に魅せられた者ならば「ドゥルーズとアドルノは似ている」と語ること

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『罪と罰』

罪と罰〈上〉 (新潮文庫) 作者: ドストエフスキー , 工藤精一郎 出版社/メーカー: 新潮社 発売日: 1987/06 メディア: 文庫 購入 : 4人 クリック : 156回 この商品を含むブログ (197件) を見る 罪と罰〈下〉 (新潮文庫) 作者: ドストエフスキー , 工藤精一郎 出版社/メーカー: 新潮社 発売日: 1987/06 メディア: 文庫 購入 : 8人 クリック : 21回 この商品を含むブログ (102件) を見る  一般に物語を前に進ませるために、人物は読者に理解されうるものとして造型される。例えば、そこで描かれる冷酷な人物は雨の日に仔犬を拾ったりしないし、温厚な人物が老婆を斧で叩き殺したり、といったことは小説中に起こらない。汚れた仔犬を胸に抱いて帰るのは温厚な人物であるし、斧の刃についた血を布でふき取るのは冷酷な人物のやることである。たとえ、仔犬を拾った人物が次の日老婆を惨殺したとしても、そのような相反する、統合されえぬ二面性は描かれた瞬間にすぐさま「二面性のある人物」として統合され、理解されてしまう(何かの小説新人賞の総評で、その容易さについて批判的に、また挑戦的な意見を出していたのは町田康だったと思う)。そのとき登場人物から“生き生きとしたもの”が失われるのは、それがはっきりと「フィクション上のもの」として理解されてしまうせいにちがいない。  しかし、ドストエフスキーの登場人物はすごく“生き生き”している(だから、やっぱりこの作家は偉いし、とんでもない、と改めて感じてしまった)。そこでは一人の人間が立体的に描かれる。主人公の友人、ラズミーヒンは「温厚な、真面目な人物」として登場するのだが、決して一面的に捉えきれる「堅物」ではなく、酔っ払って大騒ぎした次の日に自分の醜態を大いに羞じもするし、激情的になることもある。しかし、かもし出される“生き生き感”は、その面数の問題ではない。それは「固まった面」ではなく、今にも溶けてドロドロと流れ出てしまうゼリー状の立体(自分でもそんなものが存在するかどうか分からないけど)みたいに描かれてる感じというか……。  「人の性格ってよくわかんねぇ!けど、大概、人間ってこんなものだよな」とも思いました。

暴力について、または非暴力的に暴力を批判することは可能か

アンダーグラウンド posted with amazlet on 06.11.29 村上春樹 講談社 売り上げランキング: 6214 Amazon.co.jp で詳細を見る 約束された場所で―underground 2 posted with amazlet on 07.04.30 村上春樹 文芸春秋 (2001/07) 売り上げランキング: 98066 Amazon.co.jp で詳細を見る  村上春樹の取材によって書かれた2冊の“オウム本”を読んで思ったのは、世の中には二種類の暴力がある……ように見せかけて一種類の暴力しかない、ということだ。  ひとつに我々の目には悪意によってなされる暴力がある、ように見える。これは至極簡単な話だ。『アンダーグラウンド』でインタヴューを受けている地下鉄サリン事件の被害者は、そのような悪意によって行使される暴力によって、生活をメタメタに破壊された――ように世間的には思われている。なんだかよくわからないカルト宗教の指導者、麻原彰晃はとっても悪いヤツで、何人もの命を無碍に奪った人間は許しがたい、というのが事件以降の「ごく一般的な意見」を占めるものなんじゃなかろうか。  我々の前にこのような「すごく分かりやすい暴力」が振りかかったとき、我々がそれを「許しがたい」と思うこと――これはとても正常な反応のように思われる。また、「事件を起こしたアイツらは、悪いヤツだ」と評価することは、裏を返せば「私はアイツらとは異なった人間である」と表明することでもある。このとき、社会には「正義感」が生まれている(この正義感の作動によって“正常な社会”と“悪”は線引きがなされ、正常な社会の正常さは防衛されることになる)。  繰り返しになるけれど、これはとても自然な反応だ、が、個人的には現実に「アイツらは悪いヤツだ」と言い切ってしまう人を目の前にすると、ムッと来てしまわないこともない。テレビで古舘伊知郎(久米宏でも良い)が「何故このような事件が起こってしまったのか、私には理解できません」とコメントしているのをみると私はムッと来るタイプの人間なのだが、このときのムッという感じと「アイツらは悪いヤツだ」と言ってる人を見たときの感じはとても似ている