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マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(12)




失われた時を求めて―完訳版 (12)
マルセル・プルースト 鈴木 道彦
集英社 (2007/03)
売り上げランキング: 8418



 先月20日に12・13巻が文庫化されたことで集英社文庫のヘリテージ・シリーズにようやく『失われた時を求めて』が出揃った。1年近くこの小説を読み続けているわけで、なかなか感慨深いものがある。この桁外れに長い小説を締めくくる12・13巻には「見出された時」を収録。1巻冒頭のあまりに有名な「マドレーヌ」と同様に、ふとした契機で語り手である「私」はこれまで探していた「時」を見出す。そこから始まる意識の流れが、もはや小説というよりは文学批評であり、そして記憶と時間をめぐる哲学(あるいは物神化論)、といったところ。


 写実主義の180度反対側にある高度な抽象的記述によって、これまで「私」が行ってきた「期待と幻滅」のループや「読書という行為」が反省されるのだが、痺れるほど面白い。そこではヘーゲル(またはアドルノ)的に言うのであれば、「《直接的なるもの》の記述不可能性」が導き出される。しかし、「私」はその不可能性へと挑戦していく。「真の生、ついに見出され明らかにされた生、したがって十全に生きられた唯一の生、これこそが文学である」と信じて。


 作者であるプルースト自身が「十全に生きられなかった」ために、小説は未完のまま今こうして我々の前にある。しかし、このような記述を目にすると、もし作者が十全に生きたとしても小説は完成しないままだったのではないか、と思う。「失われた時」はいかにしても手に入れることは不可能である。それでも求めるというのであれば、語り手は永遠に時を求め続けるより他ない。つまり、語り手は永遠に物語を紡ぎ続けなくてはならないのだ(そして作者は実際にそのようにしていたように感じる)。それゆえ「見出された時」というよりは「時を求め、得ることの不可能性への気付き」という風に私には読めた。


 それ以前の部分では、シャルリュス男爵(男色の金持ち)の死が目前と迫っているところで、彼の最晩年の子供のような狂気が凄まじく、はっきり言って語り手の意識の流れなどは一気に吹っ飛ぶほどである。パトロンを請け負っていたモレルという美少年ヴァイオリン奏者が彼の下を去る、そして急速に彼は衰えていくのであるが、男色への情熱は反比例するかのように燃え上がっていく……(自分で男娼館を作ったり、10歳に満たないボーイの体を買ったりするのである。ほとんど目が見えないのに!)。このあたりの腐臭がするような描写が素晴らしい。ただ、彼の情熱にはモレルの幻影を求めるものが隠されているのが明らかにされると、彼がただの腐臭要員でないことも感じられる。何故なら、幻影を追い求める態度というのは語り手も同じであるからだ。そういった意味で、語り手とシャルリュス男爵は鏡のような関係にあるのだ、と思う。


 次はいよいよ最終巻。





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