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矛盾するアドルノ



 『三つのヘーゲル研究』のなかでアドルノは、ヘーゲルの難解さに対する批判を退けるとともに、ヘーゲル哲学における絶対的整合性の無さに対する批判をも退けている――ヘーゲルの著作には多くの矛盾が含まれている、しかし「そうでもしなければ、整合的思考にそなわる制限につき当たってしまい、なんとしてもそれを突破することができないのである*1」、故にヘーゲルは正しい(アドルノが描く、ヘーゲルのこのような態度は「正-反-合」という図式的な弁証法として理解される安易なヘーゲル像が誤りであることも示している)。


 私がアドルノのヘーゲル理解を読み、ふと思い出したのが戦後の彼が展開する議論に含まれた矛盾についてである。藤野寛の『アドルノ/ホルクハイマーの問題圏(コンテクスト):同一性批判の哲学』からその「矛盾」について少し長く引用してみる。



その矛盾は、彼が戦後精力的に展開した啓蒙擁護の論陣にあっては、とりわけ目をふさぎようがなくあからさまなものとなる。そこでアドルノは、アウシュヴィッツの再現を阻むためには理性の自立が不可欠である、と繰り返すのである。


(中略)

しかし、『啓蒙の弁証法』によれば、まさにその理性こそがアウシュヴィッツを生み出したものの少なくとも一因ではなかったのか。*2



 この記述を読み、当初私は「これは読み違えをしているのではないだろうか」と考えていた。『啓蒙の弁証法―哲学的断想』のなかでアドルノとホルクハイマーは、理性を「主観的(哲学的)理性」と「客観的(道具的)理性」との2つに分けて考えている。引用した箇所で触れられている自立した理性とは「主観的理性」のほうで、アウシュヴィッツの一因となった「客観的理性」とは異なる――故に、アドルノは矛盾を犯してなどいなかったのだ、というのがそれまで私の解釈。


 しかし、アドルノのヘーゲル読解を読むと「やはり矛盾だったのかもしれない」とも思えてくる。しかし、それは「目をふさぎようがなく」という批難の語彙をあてられるようなものではなく、むしろ「あえて」する矛盾だったと思うのだが(だから、アドルノが矛盾を犯していることを指摘することは、批判として成立しない)。アドルノがあえて遂行する矛盾への踏みとどまりは、決して苦しい言い訳めいたものではなく、整合性を求める客観的理性を突き崩すための戦略だったはずである。




 デリダを読んだことがないから、よくわからないのだけれども「脱構築」っていう戦略はひょっとしてこういうことなんでしょうか。だとするならば「デリダ的な脱構築」というような言葉を批評などで多く目にする一方で、アドルノには全く言及されていない理由がよく分からないのだけれども……。




*1:同書:35


*2:藤野 2000:68。引用部を探すために久しぶりに手に取ったけれど、ものすごく面白い本だ。





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