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ハンナ・アーレント『革命について』




革命について
革命について
posted with amazlet on 07.03.01
ハンナ アレント Hannah Arendt 志水速雄
筑摩書房 (1995/06)
売り上げランキング: 100470


 「なんとなく現象学」という読書の道を諦めて、読み出したのがハンナ・アーレントの『革命について』――これは「アメリカ革命*1」と「フランス革命」の比較が試みられている大著である。この本を手に取ったのは、1年ぐらいアドルノ(およびホルクハイマー)を読んでいたら自然と「暴力」について考えてみたくなったからである(こういうのは性格に起因していると思うんだけど、私はそういう風にテーマをもっておかないと上手く思想の本など読めない)。


 2つの革命の比較に入る前に、アーレントは革命の意味について議論をしている。そこで彼女は「革命家が目指すものは自由である」と定義するのだが、そこまで行ってもまだ「革命の比較」には入らず、今度はその革命によって達成されるべき「自由」とは何か、という問題をめぐっての議論が行われている。この部分がとても面白かった。


 ここでは「フリーダム」と「リバティ」という日本語ではどちらにも「自由」という訳語があてられる2つの概念が登場する。前者は「政治的空間へと身を投じることができる積極的な自由」であり、後者は「抑圧から解放されるための消極的な自由」である、とアーレントは置く。彼女が評価する自由のは前者、故にフリーダムを目指したアメリカ革命のほうを賞賛している。フランス革命のほうはと言えば、当初そのような積極的な自由を目指していたにも関らず、途中で「貧困」という社会問題の解決を革命家が目指そうとした(つまり、いつのまにか革命の目的がリバティのほうへとシフトしてしまった)から、「革命が失敗したのだ」というような読み方をしている。


 曰く、社会問題は政治によっては解決することができない。それを解決するのは技術的な進歩か、あるいは暴力的な手段によってのみなのだ。「社会問題を政治的手段で解決しようとする試みはいずれもテロルを導き、ひるがえってそのテロルこそ革命を破滅に追いやるのである」とアーレントは言う。貧困を解決するために行われる政治的手段が暴力的なものになろうとも、それが正当化されてしまい、暴力の奔流を生んでしまうのだ。もっとも、アメリカ革命が当初の目的であるフリーダムの創設に邁進できたのも「奴隷制」というまた違った暴力によって「生命の必然性」が解決されていたからだ、とアーレントは言っているのだが。


 他にも、フランス革命下の政治家の「徳」の問題(自らの『徳の高さ』を証明するためにロベスピエールは恐怖政治へと陥ったのだ、という指摘)や、近代法の正当性をめぐる問題についての議論など面白い箇所がたくさんあって勉強になった(ソクラテスとモンテスキューってすげぇ、と思ってしまった)のだが、本のなかでもっとも現代的なことを考えさせられたのは序章である「戦争と革命」の部分である。ここにはアーレントの予言めいた文章が記されている。



ヒロシマから17年たった今日、われわれの破戒手段の技術開発は急速に進んで、今や軍隊の士気、戦略、一般能力、純然たるチャンスなどのような、戦争における非技術的要素をすべて完全に無視し、したがって結果を前もってきわめて正確に計算できるようなところまで近づいている。いったんこの段階に到達してしまえば、以前なら戦場とか領土の占領とか、交通通信網の破壊などがどちらの側の軍事専門家にとっても勝敗の決定的証拠であったのに、今度はたんなる実験や示威の知識が専門家にとって勝敗の確証となるだろう。



 少し長くなってしまったが、引用してみた(ビシっと決まっていてとてもカッコ良い文章だったので)。私は軍事専門家ではないので実際のところはよくわからないのだけれど、アーレントの「予言」は大体のところ当たっているのではないか、と思う。でも、だからこそ、うーん……と唸ってしまう。「データによって勝敗がやる前から決まっているのに、なんで実際に戦争をやらなくちゃいけないんだろう?」と。戦力の差が微妙な感じだったら「やってみなきゃわかんねーだろ」とドンパチ始めるのが納得できる。でも、アメリカのイラクに対する軍事行為を考えるとそうはいかない。「なんで勝つと分かっている勝負にでる必要性がアメリカ側にあったのだろう」とか考えてしまう。


 冷戦下でこの本を書いていたアーレントはアメリカとソ連の核軍拡競争を「互いに自分のもっている兵器の破壊力を示威しあうある種の実験的な戦争にかわってしまったかのようである」と評している。そうだ、20世紀には(米ソの「代理戦争」となった戦争の事実がいくつかあったとしても)「戦争が爆発して現実のものになるまえに、いつかけりがつく」という事実があったじゃないか。なのに、どうして現実の戦争は続いているんだろう?と素朴な疑問が今胸の中にある(これはあまりに政治などについて私画無知だからかもしれないけど)。


 最後に、本に関して一言付け加えておくと「訳者あとがき」と「解説」がとても良いので必読。むしろ、内容を読む前に読んでおいた方がいいかもしれない。




*1:アメリカ独立戦争のこと





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