米元響子、パガニーニ・コンクール優勝

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http://www.sankei.co.jp/news/061130/kok013.htm

 米元響子さんがパガニーニ・コンクールで優勝しました。18歳で日本音楽コンクール優勝してから応援していたので「世界的なタイトル」での初優勝おめでとうございます、と言いたい。今回優勝した「パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクール」は、イタリアで開催される有名な方(庄司紗矢香が優勝している方)じゃなくて、ロシアで開催されている比較的新しいコンクールらしい*1。紛らわしいし、パガニーニ・コンクールが複数あるのはなんか微妙なので別な名前にしたら良いのに、と思う。「オイストラフ・コンクール」とか「コーガン・コンクール」とか……。


 この人、日本音楽コンクールで優勝する前の年にも同じコンクールで二位だったり、ロン=ティボー国際音楽コンクールでも3位(2002年)。あと1997年にも有名な方のパガニーニ・コンクールでも4位取ってるらしい。今回の受賞を聞いて「既にプロとして国内での演奏活動を行っているのに、まだコンクールに出続けてたのか」と結構びっくりしたんだけど「宣伝活動」みたいなものなんだろうか。五嶋龍をCDデビューさせるぐらいなら、彼女の演奏をリリースして欲しいよ……。




 プロフィールを確認してみたら、さらにコンクール受賞歴があった。「第6回フリッツ・クライスラー国際ヴァイオリン・コンクール」でも3位(2005年)、「エリザベート国際音楽コンクール2005」でも入選してるみたい。っていうか、こんだけ有名な国際コンクールに出て、毎回1位を逃し続けてた、っていうのもなんかすごい。「コンクール荒らし」みたいな受賞歴にはもう「1位とるまでやめねぇ!」って言う意地さえ感じる。


 現在はボリス・ベルキンの下で研鑽を積む日々だとか。「ザッハール・ブロン門下ではないヴァイオリニスト」って最近の日本では珍しい気もする。早いところ日本に凱旋してきて欲しいです。




*1:優勝賞金は2万5000ドルあとヴァイオリンを持ったパガニーニの像がもらえる





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ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲

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 米元響子さんが今回、コンクールのファイナル・ラウンドで演奏したのがドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲だったそう。


 チェコ生まれ、肉屋の息子で鉄道ヲタだったこの作曲家の作品群のなかでは割とマイナーな作品。彼のチェロ協奏曲が「チェロ協奏曲」というカテゴリのなかで最も有名な曲に入るのと比べると特にそのマイナー度合いが分かるというものだけれど、そんな「マイナー協奏曲」に入ってしまうのが勿体無いぐらい実は良い曲。メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキーの「三大ヴァイオリン協奏曲」と比べても遜色ないと思う。この機会に脚光が浴びないものだろうか。ここ何年かでブルッフの協奏曲が「隠れた名曲」じゃなくなった、というのもあり、そういう余地はありそうな気もする。


 録音ではダヴィッド・オイストラフがキリル・コンドラシンと共演した演奏が素晴らしい。録音されたのが1949年なんだけど、それが信じられないぐらい音質が良好で、全盛期のオイストラフの技術が味わえるとともに、楽曲の持つドロ臭さ、というか濃厚なスラヴ民族の体臭みたいなメロディを濃厚な解釈で堪能できる。細部でかけてくるポルタメントなんかエロくて最高。





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卒論に全く集中できないので

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http://astore.amazon.co.jp/kusobae-22


 こんなものを作りました。箱庭療法的な遊び。1つのカテゴリに54個まで商品を載せられるので、とりあえず「プログレ地味名盤」というカテゴリを埋めたいと思います。



The Cheerful Insanity of Giles, Giles & Fripp
Giles & Fripp Giles
Eclectic Discs (2005/07/12)
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 時間潰してる間にジャイルズ・ジャイルズ&フリップ(キング・クリムゾンの前身となったバンド)のアルバムを聴き直してたんだけど、これ、マジで名盤だったわ。すげぇ地味だし、基本気持ち悪いんだけど、クラシックとかジャズとかトラッドのフレーズがキメラ的にまとめられて、かつポップな方向に向かってる。でも一切花がない!絶対売れないだろうな!!ッていう感じがまた泣けんのね。あと無駄にギターがパンで振られてて、サイケな感じを演出してんだけど、でも地味なんだよなー。コンセプト・アルバムっぽい作りでナレーションが途中で挟まったりしてて色々頑張ってんのに。





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この《グラグラ》は直接見せちゃいけないんじゃないか

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アンダーグラウンド
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黒と黒の幻想

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Shaking the Tree: Sixteen Golden Greats
Peter Gabriel
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 ピーター・ガブリエルというミュージシャンはとても面白い経歴辿っている人で、ジェネシスというアート志向の強いロック・バンドのフロントマンとして、変なかぶりものを被り(逆モヒカンみたいな髪型で)歌うというイロモノだかなんだかよく分からない活動からそのキャリアを始めています。その後、かぶりものに飽きたのかバンドを脱退(その後、バンドはドラマーだったフィル・コリンズを中心にポップ志向のバンドとしてヒットを飛ばす)、ソロ活動を始めるのですがどんどんアフリカン・ミュージックに傾倒し、独特の音楽を構築していくことになります。現在はもっと多彩で、アンビエントというか神的な雰囲気と言うか見た目も仙人みたいになっている……という変な人。



D


 前々からソロ作を集める気ではいたのですが、この前間違ってベスト盤を買ってしまいました。まぁ、300円だったし、良いかと自分を納得させて聴いてみたら結構選曲が良くて、持ってる曲もエディットが違ったりでちょっと得した気持ちになりなました(現在は新しいベスト盤が出ています)。↑に挙げた映像は、ベスト盤に収録されているユッスー・ンドゥールのアルバムへのゲスト参加曲。ファンクではないアフリカの黒さ。



D


 私にとってピーター・ガブリエルが不思議に感じられるのは「リアル・アフリカン的な黒さ」とファンクのような「アフロ・アメリカン的な黒さ」を同時に内包しているところです。1986年のヒット・アルバムSOに収録された「Sledgehammer」(↑動画)では典型的なファンク・サウンドが試みられている。2種類の黒さを持ったイギリス人ってなんだよ、それ!という感じが面白い(しかも貴族出身らしい)。


 参加ミュージシャンが豪華すぎるのもツボです。サウンドの核になっているベース(スティック)奏者のトニー・レヴィンはもちろん、ロバート・フリップ、ケイト・ブッシュ、スチュワート・コープランド、ダニエル・ラノワ……とざっとベスト盤収録曲に参加してる人を眺めるだけで笑いが込み上げてくる感じのすごさ。かなりマニアックなところだとダブル・ネックヴァイオリンという畸形的な楽器を弾くヴァイオリン奏者、シャンカール(ラヴィ・シャンカールとは別人。イギリスのジャズ・ロックで結構有名な人)も参加しています。


 300円で買ったCDでこれだけ楽しめる自分が割りと好きです。





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東大アイラー再訪

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東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編
菊地成孔 大谷能生
メディア総合研究所
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 プログレとか言ってる場合ではなく、えっさえっさと卒論を書かなくてはならない身の上なのでプログレ関連のYoutube動画を探すのを我慢して卒論を書いています。現在は1930年代からのジャズ批評における「語りの方法」を抽出し、その後、アドルノと闘わせる……というよくわからない構想の章に着手しはじまったところ。その前に簡単なジャズ史みたいなものを書かなくてはいけないので、昨晩から菊地・大谷による『東京大学のアルバート・アイラー』を再読しています。


 爆笑しながらジャズの歴史とその即興演奏における方法論が知ることができる、ということに「とんでもない本だ……」と改めて思ってしまいました。特にマイルス・デイヴィスの「モード奏法」の箇所などは素晴らしく明快で「『Kind of Blue』の根底にはこんなドグマが存在したのだなぁ、ふはぁー」と溜息がもれますが、それをさらにこのアルバムが出た当時のジャズ批評と対比してみると、この本の「面白さ」は何倍にも膨れ上がります。

 当時のジャズ批評って、やれ「黒人の怒りが」とか「○○の生活は……」とか音楽と全く関係ないことばかり語っているのですね。終止、ミュージシャンの身の上話に語りのフォーカスが当てられている。これってたぶん、ジャズ・ジャーナリストと呼ばれる人たちってジャズを楽理的に分析する能力が皆無だったからだと思うんですよ*1。その「音楽の構造を分かってないけどなんかを語ってる不思議な感じ」は『東大アイラー』と比較すればすごく浮かび上がってくる。


 ただ『東大アイラー』は別に画期的な語り口というわけではないんですけど。「楽理的分析から批評的な言説を紡ぐ」という方法であれば、それこそアドルノだってやっているし、それ以前のハンスリックという人もやっています。でも、いつしかそういう方法は取られなくなっていく。その感じっていうのが、音楽がどんどん楽譜(というエクリチュール)から離れていくのと関係があるんじゃないかな……と思ったりもします。楽理的分析によって音楽を描くこと事態に限界があるのに、菊地・大谷がそれによって音楽をどう語るのか、っていうのはあんまり明確にされていないような気もするし。言ってみれば楽理的に音楽を分析したところでそれを「理解」と呼べるかどうか……。アドルノならそんな「理解」を「音楽の廃墟にすぎない」とか言う気がするなぁ。


 再読しているうちに論文と関係ないことが頭に浮かんだので、ささっと書いてみました。




*1:いや、私も分析能力なんかほとんどないんですが





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違和感なし!

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Drama
Drama
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Yes
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 「ニューウェーヴ再評価」の波も一段落、と言った昨今、別にその流れに乗ってニューウェーヴ関連昨を買い集めていたわけではないのだけれど「じゃあ、次はプログレか?!」とか思っている。たぶん「プログレ再評価」とか絶対無いけど「誰かに買われないうちに……」と今のところ人気がない中古盤価格が安いアルバムを買って来て「うわー、良いなぁ」とか思うのは楽しい。そんなわけでイエスの『Drama』というアルバムを買って来た。500円……。


 イエスと言えば「ヴォーカル、ジョン・アンダーソンのハイトーン・ヴォイス」がまず特徴の一つとして挙げられると思うんだけど、1980年に発表されたこのアルバムはジョン・アンダーソンがキーボードのリック・ウェイクマンと一緒にバンドを脱退してしまった後に、バグルズを吸収して製作されている。「ラジオ・スターの悲劇」をヒットさせ「MTVの象徴」とも言えるバグルスと、70年代前半にいくつか売れたアルバムがあれど「ダサいロック」の象徴であるイエスの融合ってどんなだよ!って思うんだけど、全然違和感が無いところが面白い。すごく……好きだ。

 印象としてはA面が、長尺で変拍子、展開の多い「Machine Messiah*1」という楽曲を中心に従来のイエス風でまとめられているのだけれど、B面が素晴らしい。バグルスが「技巧派バンド、イエス」というマテリアルを使用して自由に作り上げたモダン・ポップという佇まいが粋(そしてどう考えてもバグルスの楽曲にしか聴こえない)!各々の癖のあるプレイ、特にスティーヴ・ハウの変なスライド・ギターとか音数の多いパッセージが盛り込んであるんだけど、それが過剰で全体としてまとまりがついてない――「そこが良いんじゃない!(みうらじゅん)」と叫びたいですよ、私は。



D


 A面はバンドを去っていったジョン・アンダーソンへのトリビュート。ある意味、ポール・ロジャースのヴォーカルによるクイーン再結成みたいなものなんだろうけど、その部分はほんとに結構どうでも良いです!「ジョン・アンダーソンを再現」みたいなものに過ぎないから。何度でも言うけど、「見た目はバグルスで内臓が過剰にイエス」というB面曲が最高(映像はB面に収録された『Into The Lens』という曲のライヴ映像。この後、このメンツによるイエスは二度と存在しないので貴重な映像)。ちなみにこのバグルス-イエスはこの後、分裂してエイジアになったり、トレヴァー・ラビンという人をいれてシネマというバンドになったりします(シネマにジョン・アンダーソンが出戻ってイエスの名前になる)。




*1:マシン・メサイアってどういう意味だろう……





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東京都交響楽団第635回定期演奏会@サントリー・ホール

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曲目




  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番

  • R・シュトラウス:《アルプス交響曲》


 指揮はエリアフ・インバル、ピアノはエリソ・ヴィルサラーゼ。海外からの割と大物な指揮者が客演ということで、この日の客入りは8割ほどという感じ。「あー、生でベートーヴェンのピアノ協奏曲が聴きてぇなぁ」と2ヶ月ほどまえにチケットを予約していたのだけれど、チケットを買っていたのをほぼ忘れているぐらいだったので本当にチケットを予約できているか心配になりながら、会場へ。カラヤン広場は早くもクリスマスムード全開。


 ソリストのエリソ・ヴィルサラーゼという人は、グルジア出身でネイガウスやリヒテルなどの元で研鑽を積んだ大家なのだとか。ボリス・ベレゾフスキーの先生だと言うのだから、結構すごい人みたい。細かいところの指周りが怪しかったり冒頭からちょっと心配だったのだけれど、まずまずの好演。テンポの変化がかなり目まぐるしく、オーケストラとの連動が上手くいっていない所もいくつかあったけれど、ラストで一気に巻いていく勝負感が楽しい。



R.シュトラウス:アルプス交響曲
インバル(エリアフ) スイス・ロマンド管弦楽団 R.シュトラウス
コロムビアミュージックエンタテインメント (2005/12/21)
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 そしてメインの《アルプス交響曲》。R・シュトラウスの1911年の作品。これはもう後期ロマン派最大規模の作品と言っても良く、通常の二倍のオーケストラ(チューバ、ハープも二台ずつ!)、各種の特殊楽器、金管別働隊、さらにオルガンまで使用するというキチガイっぷりが圧巻で、演奏前から笑いが込み上げてきた。喩えるなら二個大隊+特殊兵器+グリーンベレー部隊にガンバスターがついてくるみたいな感じだろうか。そこには「近代性の結晶」としての音楽みたいな精神があって「オーケストラでアルプス登山を表現してやるぞ!オラッ!!」みたいな気概がとても良い。今、そういう「やる気」をみたら失笑するけど、当時はガチだった、っていうのが温度の差を感じさせ、その差が好きだ。バカみたいに扱ってるけど、生で聴くとマジで迫力とか音量とかがすごいから、機会が会ったら一度は体験してほしい作品だな、と思う。


 インバルの演奏は「さすが外人……惜しみないな……」と思わせるパワフルなもので、とても良い演奏。各ソリストも気合充分で(特にコンサートマスター矢部達哉!)、日本のオケもやればできるじゃないか!と見直すぐらいに興奮させられる。この曲で使う特殊楽器もバカみたいに音量全開だし。特にウィンドマシーン(レバーをグルグルまわすと風が吹く音が出る)は、後半部分ずっとソロみたいな活躍ぶりで笑った。バカみたいなんだけど、そういう曲なんで良いのです。





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ミニマル悪夢

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女中(メイド)の臀(おいど)
ロバート・クーヴァー Robert Coover 佐藤良明
思潮社
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 トマス・ピンチョンやジョン・バースに並ぶアメリカのポストモダニストと称される小説家、ロバート・クーヴァーの短編。「強烈な印象の小説だったよ……」という友人の薦めによって読む。主人とメイドという非常に閉じた世界の中で、言葉遊びを伴ってミニマルに繰り返される官能――簡単に小説の内容を言うならばこんな風に表現できるだろうか。メイドが失敗をするたびに主人はメイドの尻を鞭で叩くのだけれど、その関係は同時に「主人は《叩かなければならない》」という受動的な暴力にもなっていて屈折したSM的関係が面白い。


 非常に翻訳の限界を感じさせる小説だなぁ、と思った(翻訳者、佐藤良明による解説を読まなくては分からないことだけれど)。原文の言葉遊びの部分を、翻訳者は「ダジャレシステム」で解決しようとしているんだけれど、なんかやっぱり無理がある、というか……ダジャレにしてしまうことによって「遊び」の部分ばかりが浮き上がってしまう感じがするよなー。私は英語が苦手なので文句は言えないし、むしろ、「読書は闘いである」などと言うのであれば言語能力を習得する必要性にも駆られてしまう。


 原文はクラシックで格調高い文章だそう。翻訳だと部分的にあるその「硬さ」がお笑いにしか感じ無いのが……つらい。仕方がないことだ。





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作家の想像力と闘う

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重力の虹〈1〉
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トマス・ピンチョン Thomas Pynchon 越川芳明 佐伯泰樹 植野達郎 幡山秀明
国書刊行会
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 トマス・ピンチョンの作品を読むのは大変だ、と思う。何せ本は文庫になっている『スローラーナー』以外は結構高価なものだし、『重力の虹』の2巻なんか絶版になっているせいでお目にかかることも稀だ。しかし、こういう問題点は意外となんとかなる。高価な本でも古書店で探せば結構安く手に入るし(私の持っている『競売ナンバー49の叫び』は友人がブックオフで100円で売っていたのを回収したのをコーヒー一杯で譲り受けたものだ)、割と大きな図書館にいけば大概『重力の虹』ぐらい所蔵しているはずだし(1巻だけ先に手に入れてしまっていた私は大学の図書館で借りて読むことができた)。


 もっとも解決し難い「読むことの困難さ」は、そもそも「《理解すること》が難しい小説である」ということに尽きる。直線的に進まないストーリーは、数々の脱線を挟み、登場人物も多すぎて「小説の全体像」が掴みづらい。だから「これは○○という感じの小説だった」と読者は感想を着地させることがなかなかできない。大体長い。『重力の虹』なんて2段組で1000ページ近くあるから途中で飽きたりするのかもしれない。でも、私はそういう「困難さ」を乗りこえて、もっと色んな人がピンチョンの小説を読むべきだ、と思う。『重力の虹』をいつまでも市立図書館の暗い書庫に眠らせておくことなく、貸し出されるべきだ、と。そして、眠らせておくぐらいなら俺にくれ、と言いたい(2巻だけで良いですから!)。


 こんな風に熱く語ったからと言って、私が『重力の虹』で「涙を流した」とか「猛烈に感動した」とか言うわけではない。というかむしろ、この小説はそういった「共感」なんかとは一切無縁の話なのだと思う。B級映画やメロドラマのエッセンスをモンタージュ的に繋ぎ合わせた「《無意味さ》の怪物」とでも言えば良いだろうか。まず「第二次世界大戦下のイギリスで、主人公がセックスした地点に必ずドイツのV2ロケットが着弾する……」という設定からして「お前、それ大の大人が考えることか!?」と作家に質問状を送りたくなるようだ。小説中に繰り広げられるのも、耳を塞ぎたくなるような下ネタや失笑してしまいそうなぐらいバカ話ばかりで本当に酷い。けれども、そのバカなネタの数々はどれも我々の想像力をはるかに超えたバカだから「面白い!」となる。私が最も好きなのは「精液を塗りたくると文字が浮かんでくる秘密文書(受取人の性的嗜好に合わせたエロ写真付で、見た瞬間射精してしまう!)」というバカアイテムが登場するシーンなのだが、もう「あり得なさ」の過剰が爆笑を誘って良いのだ。


 ただ、ピンチョンが小説中で展開する「想像力」もまた「読むことの困難さ」を生んでいる、と思う。諸刃の剣的なものと言ってもいいかも知れない。読者にとって「未知なるもの」が頻発するということは、我々はその度にそれをどうにかして処理しなくてはいけないのだ。「精液で文字が浮かぶ秘密文書!?なんだそれ!?」だとか「ハイドンの弦楽四重奏曲に《カズー》四重奏曲変ト短調なんかあんの?(もちろんそんなものは存在しない)」だとか。それは浅はかな私の心理学的知識から考えても「疲れるよな」という話だ。我々の脳味噌はカテゴリー的な認識によって逐次的な認識を回避し、認知的なリソースを節約している。ピンチョンの小説では、それができない。


 逆に言えば安易に「共感/理解できる小説」というのは、その程度の読書にしかならない、ということだ。「あー、すごいこの登場人物の気持ちが分かるなぁ」と共感できること、それはつまり既にそういった感覚が既に自らのなかに存在することに他ならない。小説は内容は「共感」という言葉に回収され、カテゴリー的に処理されてしまう。それで終わりだ。私が「共感を呼ぶ恋愛小説」だとかを退けるのも、それが新しい感覚を呼び込まない(それによって『面白い』と思えない)、と信じているからでもあるけれど。だってなんか「そういうことってあるよねー(わかるー!)」って友達と不味いコーヒー啜りながら喋ってる女子大生と変わらないじゃないか(そういう楽しさも分かるけれど、喫茶店に何時間もいたらケツが痛くなるし……)。


 ピンチョンが書くような小説はそれとは異なる。それは「読書」というよりも「作家の想像力との闘争」みたいなものじゃなかろーか、と私は思う。そして、そういう刺激的な読書をしなくては!と常々感じる。殺るか殺られるか、そういうギリギリの読書がとても楽しい。あと「共感できる」とか「泣けるよねー」とか言えるような本ばっかり読んでる人は、Yoshi読んでいる中高生をバカにできないと思うのね。チルってる場合じゃねーんすよ!





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ポポル・ヴー再発記念

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 いわゆる「実験音楽」の世界が1970年代に入ってから、それまでと違いどのように変化したか?と問うならば最も大きな変化は、アカデミズム領域外から様々な才能が参入してきたことなのかもしれません。特にシンセサイザーという「どんな音でも出せる(原理的には!)」夢の機械が登場してから、その流れは活発になったのではないでしょうか。特にドイツにおいては、初期クラフトワーク、タンジェリン・ドリーム、アシュ・ラ・テンペル……など様々なグループがシンセサイザーを操り、新しい響きを生み出してきました。ドイツに遅れて到着したサイケデリック・ムーヴメントの影響も感じさせる、まどろむような音響は未だに刺激的です。っていうかこの時代にしかこんなもの作ろうと思ったヤツはいなかっただろう……というメチャクチャなものばかりなんですが、それだけで聴く価値はあると思います(もしかしたら退屈かもしれないけれど*1)。



アギーレ/神の怒り(紙ジャケット仕様)
ポポル・ヴー
ディウレコード (2006/12/22)


 ドイツの数ある実験音楽グループでも、他とは少し毛色が違うのがポポル・ヴー(冒頭に挙げた動画は彼らの1971年の映像)。中心人物、フローリアン・フリッケがシンセサイザーを用いているのは他のグループと同様ですが、サイケ的な混沌を抜け出したクラウス・シュルツェ*2がたどり着いた「ニューエージ的なサウンド」を彼よりも一足早く開拓していたように思われます。静謐で秩序を感じる音作りは「ロックでもイージ・リスニングでもなかった!」わけである意味孤高過ぎ、あんまり評価されてない気がするのですが(『ポスト・ロック』の先駆けとしてノイ!でさえそれなりの評価を受けているのに!)語られないのは少し勿体無い……ヴェルナー・ヘルツォーク作品のサントラも手がけてるし面白い存在なのになぁ……と思っていたところ、なんとアルカンジェロから紙ジャケで再発されるそうです(12/22に8タイトル)。ヘルツォーク作品のサントラ盤はいくつか持っていたのですが、この機会に全部集めてしまいそう。




*1:でも、シュトックハウゼンとか聴いてスノッブぶってるくせにタンジェリン・ドリーム聴かないっていうのはインチキだよな


*2:元アシュ・ラ・テンペル、かつ喜多郎の師





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金縛りと幻覚

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 半年ぐらい前から眠っているとき、金縛りになることがでてきました。心霊現象ではないことは知っているのですが、そう分かっていてもものすごく怖くて、眠るのが嫌になります。ネットで対策法を調べてみると薬でよくなるのだとか。ここ3日間ぐらい連続して金縛りにあっていて「自分どれだけ疲れてるんだよ……」と思いました。以前は疲れているときとかストレスを感じているときに「あおむけで寝る」と100%の確率で金縛りになったものですが、最近は横になって眠っていてもそうなる。


 金縛り状態には幻覚や幻聴を体験することがあるらしいのですが、金縛りで何が怖いってその幻覚が一番怖い。悪い夢のようなものだとは分かっていても、怖いものは怖いです。最近見た幻覚は




  • 布団のなかに何ものかが入ってきて左のワキに手を入れられ、強い力でつかまれる

  • 中学の頃に嫌いだった技術の先生が胸の上にのしかかってくる

  • 頭のまわりで何ものかがバタバタと走り回る


 など。一人暮らししているので得体の知れないものに襲われた感覚があると「もしかして強盗に寝込みを襲われてる……?!」と錯覚してしまいがちです。





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ルチアーノ・ベリオ

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ベリオ:セクエンツァ
ベリオ:セクエンツァ
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アイヴィー (2006/07/01)
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 卒論の執筆を進めながら、ルチアーノ・ベリオの《セクエンツァ》を聴く。これは様々な楽器による独奏作品のシリーズで、どれも超絶技巧/特殊奏法を駆使しなくては演奏することが不可能なように書いてある(ナクソスからCD三枚組の全集が出た)。例えば、管楽器による「重音」などがその「特殊奏法」の一例。本来であれば、管楽器は同時に二つの音を鳴らすことは「不可能」なのだが、アンブシュアや運指をなんとかすることによって倍音が上手く分離して、あら、不思議、音が2つ鳴っているように聞こえるではないか!という仕組み。昔のジャズ・ミュージシャンのインタビューで「サックスで和音を吹けるんだぜ、俺は」と誇らしく語っているのを見かけたことがあるけれども、おそらくそれも同じことを言っているのだろう。しかし、それは分かりづらい特殊奏法である。吹いている本人は必死だし、おそらく骨伝導で音が聞こえているからハッキリと音が分離して聞こえてるのかもしれないが、訓練されていない耳で聞いてしまうと単音にしか聞こえない可能性は充分ある。


 そもそも音楽にとって技術とはなんであろうか?音楽史を紐解いてみるとリストやパガニーニといった演奏家が超絶技巧をサーカス的に披露し大人気だったロマン派の時代に技巧への注目は高まるようになったらしい(そのへんの話は岡田暁生の『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』に詳しい。超良い本です)。そのとき本来であれば、音楽を演奏するための「手段」であったのがまるで「目的」かのように倒錯的に扱われるようになっている。「あらまぁ」という話だが、一応建前では「超絶技巧」は「手段ですよ」ということになっている。つまり、技巧は作品の内容を成立させるために必然的に生まれたものですよ、ということを一応言っているわけだ。ピアノの世界に限れば20世紀にはピエール・ブーレーズやカールハインツ・シュトックハウゼンが超絶技法を駆使する作品を書いている。ブーレーズのソナタは『タキシードを着て演奏可能な最後のピアノ曲』と称された。が、そんな話を聞いたらブーレーズは「これはピアノ曲ではない」というタイトルの論文を発表しそうな気がしないでもない。


 ベリオの《セクエンツァ》の場合、潔いのが「これは超絶技巧のための作品ですよ」と言ってしまっている点だ。だからといってすごい技法でメロディを速弾きするわけではなくて(あと、フレーズの速度で言うならインペリテリの方が速い)、やっぱりセリエルでとっても難しい作品。もしかしたら演奏している本人だけが「うおー、やったぜ、俺こんなすげぇことやってるぜ」と汗かきながら心の中でガッツポーズするだけなのかもしれない。私は自分でもバスーンを吹くから「うおー、すげぇな」と思うけれども(《セクエンツァ》第12番)、他の楽器のことはよく分からないし……。「潔さ」の部分、というか発想は好きです。

 それから、いつまで経ってもベリオについてのキーワードに追記がないため、自分で書きました(id:encyclopectorさん、チェックよろしくお願いします*1)。




*1:あえて《シンフォニア》には言及していません





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底知れぬ想像力

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重力の虹〈1〉
重力の虹〈1〉
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トマス・ピンチョン Thomas Pynchon 越川芳明 佐伯泰樹 植野達郎 幡山秀明
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 感想はそのうち書きます。とりあえず超面白いから、手に入らない2巻を図書館で借りました。





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タマゴクラブ、ヒヨコクラブ、プロコフィエフ

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 リアルに魔女ヴィジュアルをもって現代ピアノ界に君臨するアルゼンチン出身のピアニスト、マルタ・アルゲリッチによるセルゲイ・プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の映像。アルゲリッチはこの曲を得意としていて、ここでも曲の洒脱な魅力をパワフルな超絶技巧によって描いてくれています。はっきり言ってオーケストラ(トロント交響楽団)が追いついていない。歳を取ってこんなに弾けたら、化け顔だよね(顔も含めて)。



プロコフィエフ:作品集
オムニバス(クラシック) ヨーロッパ室内管弦楽団 アバド(クラウディオ) プロコフィエフ ミンツ(シュロモ) シカゴ交響楽団 ワシントン・ナショナル交響楽団 ロストロポーヴィチ(ムスティスラフ)
ユニバーサルクラシック (2005/03/23)
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 録音ではクラウディオ・アバド/ベルリン・フィルとの共演が素晴らしい。旦那さんであったシャルル・デュトワとの二度目の録音よりも、若くて(そして綺麗で)勢いに任せて弾いちゃってる感じが、このプロコフィエフ若書きの持つ瑞々しさとあっている。「素直にカッコ良い曲だなぁ」と思ってしまうもんね。いまだにプロコフィエフというとこの曲ばかり聴いてしまう。



D


 あとビックリしたのが、このピアノ・ソナタ第7番《戦争ソナタ》。とにかくテンポがはぇぇぇ。(たぶん)演奏会盗み撮りした映像なので、音質も悪いせいもあって途中で何を弾いているか全然分からないぐらいに高速。アルゲリッチ録音でもこれぐらい速く弾いてるなら、CD買います。これは恐ろしい。





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グレン・グールドのシェーンベルク

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 Youtubeでシェーンベルクを検索したところ、グレン・グールドとユーディ・メニューインが《幻想曲》という作品を演奏している映像が出てまいりました。これは第二次世界大戦後に書かれた曲ですね。このときにグールドとメニューインが作品について語っている映像もアップされていますが、二人の会話の内容が結構面白い。「これはすごい技術的にも難しい作品だけれども、とても純粋な作品だと思うよ。バッハのようにね」とメニューインは非常に優等生的なシェーンベルク解釈を行っている。このとき彼は「私は楽譜を見ないとこんな難しい曲は弾けないけど、彼はすごいよね。こんな曲でも暗譜で弾いちゃうんだから!」と思っていたそうです。



Gould Meets Menuhin
Gould Meets Menuhin
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Johann Sebastian Bach Ludwig van Beethoven Arnold Schoenberg Glenn Gould Sir Yehudi Menuhin
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 この時期のグールドの12音音楽に対する熱の入れようはかなりのもので、ある作曲家との対話のなかで「小さな子供を誘拐して、山小屋に監禁するんだ。もちろん外の情報からは隔絶したようなところでね。そうして現代音楽だけを聴かせる。12音音楽だけを慎重に選んで。そうしたら絶対に子供は12音音楽で鼻歌を歌うようになるはずだよ!」と怖いことをすごく楽しそうに語っている姿が印象強く残っています。





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躁になりたい

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シェーンベルク:モノドラマ「期待」
ラトル(サイモン) バーミンガム・コンテンポラリー・ミュージック・グループ シェーンベルク ブリン=ジュルソン(フィリス) バーミンガム市交響楽団
東芝EMI (2006/10/25)
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 今日も卒業論文執筆です。そろそろ1日に4000字ぐらいの波に乗らなくてはいけないのですが、論文内で想定していたいくつかの山にぶち当たってしまいました。なんとかそれを乗り越えたら「ああ、続きは明日で良いか……」という気分に。こういうときは音楽で奮い立たせるか、ビールでもあおって勢いをつけるしかありません。昨年もゼミで2万字程度の論文を書いたのですが、それを成分分析にかけたら発泡酒20リットルが検出されると思われます。よく書けたなぁ、自分。


 本日聴いていたのは、現在ベルリン・フィルの芸術監督、サイモン・ラトルがバーミンガム市響時代に録音したアルノルト・シェーンベルクの《室内交響曲第1番》。この作品は、シェーンベルクが無調/12音音楽期に突入する以前、後期ロマン派の影響を色濃く受けた時代(ピカソで言うなら『青の時代』に値するといえるかもしれません)の秀作です。調性は明瞭ではなくかなりメチャクチャな感じですが、ラトルの演奏ではグスタフ・マーラーのスケルツォでレントラーから急にマーチへと移り変わる瞬間の混沌を25分に拡大したように聞こえます。シェーンベルクとマーラーを極限まで接近させた「歴史の改編」とでも言いましょうか。もともとシェーンベルクはマーラーの孫弟子にもあたり、近いといえば近いのですが、ここではその間にいるアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーという存在がキレイに消されてしまいます。このような躁状態がやってくれば良いのですが……。


 シェーンベルクといえば未完の歌劇《モーゼとアロン》が映画化されたものなんてあるのですね。[str.fileNotFound]で上映されているそう。観て来た友人に話を効いた時は「へぇー、そんなんあるんだ?(全然興味ないわー)」とか言っていたのですが、オーケストラの演奏がミヒャエル・ギーレンだと知って俄然気になってきました(上映終わってるけど)。この人の演奏には大概はずれがない。





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構造的聴取を超える

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Morton Feldman: Triadic Memories
Morton Feldman Sabine Liebner
Oehms Classics (2005/06/21)
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 ジョン・ケージなどと一緒に活動していた作曲家、モートン・フェルドマンへの再評価が徐々に徐々に高まってきているようで少しドキドキとしている(今年生誕80周年なのだそうだ。ちなみに既に故人である)。彼の書く作品は、異常なほど「動き」が少なく静謐で、そして異常なほど長い。図形楽譜を考えたのも、彼だったらしい。今年日本の作曲家、川島素晴のプロデュースによって晩年の《Three Voices》という作品が日本で初演されたけれども1曲75分のヴォリュームだったそうな(初演時は90分以上!)。1曲6時間とワーグナーの《楽劇》並の長さを誇る作品もあるそうだから、CDの規格には向かない稀有な作曲家だった、とも言えるだろう。アナログ時代に録音されたことがあったんだろうか。


 《Triadic Memories》という彼のピアノ曲も長い。ドイツのクラシック・レーベル「OEHMS」から出ている2枚組のCDでその全貌を把握することができるが、1楽章は67分41秒、2楽章は56分28秒、合わせて2時間以上ある。このピアノ曲では短いフレーズが空白をあけて演奏され、変容していく……と説明するとまるでライヒやグラスのように思われてしまいそうだけれど。まぁ、これも一種の「ミニマリズム」には違いない(聴いていて大友良英とSachiko MのFilamentとの近さを感じた)。時間の間隔を引き延ばすような不思議な力を持った音楽だと思う。「え……まだ30分しか経ってないの?」と何度も思ったが、それは退屈とは違う。


 20世紀に書かれたピアノ曲は数多くあるけれども、フェルドマンのこの作品が極めて異彩を放っているのは、それが「構造を把握すること」から逃れきった作品であるということだ。それは構造的聴取からの逃走を意味する。アドルノは言う「音楽に集中せよ」、「音楽と対峙せよ」と(シェーンベルクを『理解する』には、その方法しかないのである)。ピエール・ブーレーズの書くピアノ・ソナタもそのように理解されなくてはならなかったし、おそらくカールハインツ・シュトックハウゼンやルチアーノ・ベリオの作品もそうであろう。それらは一見して「抽象的な作品」のように聞こえる。しかし、楽曲の構造は実に具体的であり、むしろ構造こそがその具体的な内容であった。しかし、フェルドマンの作品はそういった理解をも拒む。長い空白と延長されるピアノの残響によって、構造は聴衆の記憶から「忘れ去られる」。鳴らされるフレーズは常に反復のようであり、常に新しい――そこにはフェルドマンにしか描くことのできない本当の意味で「抽象的な音楽」があるような気がする。





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卒論鋭意執筆中

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ベートーヴェン:交響曲第5番&第6番
スクロヴァチェフスキ(スタニスラフ) ザールブリュッケン放送交響楽団 ベートーヴェン
BMG JAPAN (2006/10/25)
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 もし巨乳であることから生じる肩こりがこれぐらい辛くて、それが毎日続くようなら崖から身投げしたほうがマシだ!というぐらいの肩こりと闘いながら卒業論文を書いております。1年間溜め込んだ性欲みたいなアドルノを出し尽くしてしまいたいんだけど、3時間ぐらいでもう左肩が「これ以上投げたら選手生命に関わる」的な状態に。


 今日の「自分応援音楽」は「ミスターS」ことスタニスラフ・スクロヴァチェフスキのベートーヴェン《運命》と《田園》。つい最近彼が全集を完成させ、現在バラ売りでHMVに並んでいるのを購入しました。試聴でガツンとやられるかなり活力ある演奏。現在83歳とは思えないほど力強い演奏。今まで彼の演奏に触れたことが無かったのですが、顔がいかにも巨匠然としていて「テンポ遅そうな顔だなぁ」と勝手に思っていたのだけれど、かなり快速。そして、爆音。「試聴からレジへ」という流れを生んだのも「《運命》3楽章で鳴らされるホルンの音が重厚すぎる」という衝撃でした。オーケストラはザールブリュッケン放送交響楽団。このオケはスクロヴァチェフスキと組んでブルックナーの全集を完成させておりますが「やっぱりブルックナーを立派にやれるオケ」はホルンが一味違うな、と思います。とても良い演奏。やる気がでますよ、これは。肩こりは治らないけど。


 ちなみにこの演奏で使用されている楽譜は、ベーレンライター新版。フレーズが旧版とかなり異なる箇所があり新鮮(特に《田園》の第4楽章の第一ヴァイオリンなどは結構びっくり)。今後はベートーヴェンもブルックナーのように版の違いについて語られることになるのでしょうか。





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当たり前のことを立派に言う

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賢者の教え―せち辛い人生をいかに生きぬくか
バルタザール・グラシアン J.レナード ケイ Baltasar Gracian J.Leonard Kaye 加藤 諦三
経済界
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 17世紀スペインのイエズス会で偉いお坊さんだったバルタザール・グラシアン・イ・モラレスの箴言集を読む。ショーペンハウエル、ニーチェ、ルーマンなどがグラシアンにリスペクトを捧げているという話を『社会の芸術』の訳注で読んだので気になっていたため。マーケットプレイスで10円。ビジネス/自己啓発本みたいにリメイクされているため、この安値なのだろうか。編者もJ・レナード・ケイという本業はグラミー賞受賞歴のある作詞家という謎っぷり。


 言ってることはすごく普通で当たり前すぎるぐらいに当たり前なことばかりなんだけれど、いちいち立派でありがたい言葉のように読めてしまうのが面白くて一気に読んでしまった。一発目から「眠りは寡黙の伴侶である。問題は明日考えよ」ですよ――早く寝て、悩みごとは明日考えなさい、ってことでしょ?お母さんみたいじゃないか。他にも「歓迎されたければ招かれた場所のみいくことだ」とか「不注意から生じた間違いには、ただちに責任を取れ」とか当たり前なことがたくさん。そのたびに爆笑。最高なのは「人に頼みごとをするにはコツがある」。そのコツを教えて欲しいのだけれど……。


 でも、やっぱりこういう当たり前のことを面と向かっていわれること、って結構面白い。「当たり前のこと」って、当たり前すぎて普段見えないもんな。だから、グラシアンは偉い(のかもしれない)。ちなみに今アマゾンみたらこの本の最安値、9円でした。





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こどものミメーシス

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ベートーヴェン―音楽の哲学
テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 大久保 健治
作品社
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 『ベートーヴェン――音楽の哲学(Beethoven: Philosophie der Musik)』は1993年に出版された最も新しいアドルノ著作である。もちろん1969年にアドルノは亡くなっているから彼が直接出版を許可したわけではなく、ドイツのアドルノ研究者ロルフ・ティーデマンがアドルノの遺稿や膨大な量のメモを編纂して一冊の本をまとめたもの。『ミニマ・モラリア』的に断章がテーマとの関連などで区切られ並べられているのだが、アドルノが存命中に発表したものより「分かりやすい言葉」が綴られているという印象を受けた。「死後他人による編纂だから厳密にはアドルノの著作とは呼べない」かもしれないが、「非体系の思想」を自称し、自らのスタイルにエッセイを選択したアドルノである。あんまり問題は無い、っていうかティーデマン、良い仕事しすぎて泣ける。


 ここ何日か「アドルノにとってミメーシス【模倣】って具体的にどういう認識の手段だったんだろーなぁ」ってことをもうちょっと考えたくて色々と探り、今まで読んだものを読み返しながら、このベートーヴェン論を読んだ。一つ読んでいて思ったのは、アドルノが考える「最もミメーシスに適した認識主体」とはひょっとしたら子供であったんじゃないか、ということ。この本の第一章である「序曲」には、アドルノがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番《ワルトシュタイン》について、子どもの頃の思い出を折り返しながらこのような断章を残している。



子供の頃の私はこのソナタは、いわばワルトシュタイン(森の石)という名を表す曲と考えていた。その名を聴いた時、私が最初に想像したのは、暗い森に踏み入る騎士のことであった。後年私はこの曲をいつも暗譜で演奏するようになるが、子供の頃の私の方が、真実に近いところにいたのではあるまいか。



 アドルノの子供時代の思い込みは事実とは異なっている。《ワルトシュタイン》というタイトルは「森の石」を意味する一般名詞ではなく、ベートーヴェンが献呈したワルトシュタイン伯爵の固有名だ。言うまでもなくアドルノはそのことを知っている。しかし、暗い森を思い描いていたときの方が「真実に近いところにいたのではないか」という。ここには過去への憧憬があるように思われる(このあたりにアドルノがよく引用するプルーストとの近似性がある)。アドルノがこのように過去を振り返るのは、理性からミメーシスへの不可逆性とも通じている気もする。もう少し噛み砕くなら「今自分はこの曲を暗譜しているし、アナリーゼもできる。冒頭に続くC-durの連打が騎士が森に踏み入る足音を意味するものではないことも知っている。でも、悲しいっすよね。あのときみたいに曲を“体験すること”はできないのだから」みたいな感じ。あー、全然上手く言えてない。


 とにかく、これは読んで良かった。「付録」でついてくるアドルノのラジオ講演録も面白かったし。





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アドルノはガチか?

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 本日、指導教官の先生と話しました。「アドルノってあれ全部ガチで言ってんですか?ユートピアとか」と質問したら「いやー、ガチでしょう。フランクフルト学派は全部ガチ!」と笑顔で返されました。非常に勉強になります。思想の文脈を切り離して読んでいるとおそろしいことになるなぁ、としんみり思います。





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生を完成させること

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老いぼれグリンゴ
老いぼれグリンゴ
posted with amazlet on 06.11.13
カルロス・フエンテス Carlos Fuentes 安藤 哲行
集英社
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 メキシコ革命下、暴力が蠢く砂漠と太陽の土地に「みてくれの良い死体となるために」一人の老いたグリンゴ(異邦人)がやってくる。そのグリンゴは『悪魔の辞典』の著者であり、ジャーナリストとして活躍したアンブローズ・ビアスだった……という「メキシコの大文豪」、カルロス・フエンテスの小説を読んだ。ここ最近で飛び上がるほど面白い!と感じた小説。神保町に半年前ぐらいにできた古書店で偶然手に取り、安かったから(700円)買ったんだけど、素晴らしい出会いだった。これだから猟書は辞められない。


 メキシコに入ったアンブローズ・ビアスは自分の正体を隠し(そもそもメキシコ人にとってビアスの名前など何の意味ももたないのだが)名も無きグリンゴとして革命軍に身を投じる。そこで彼は一人のアメリカ人女性と出会う。ワシントンからやってきたハリエット・ウィンズロー。アメリカで彼女は父親に捨てられ老いていく母親に付き添いながら死ぬように生き、そして生を求めてメキシコにやってきた。そして、もう一人、トマス・アローヨという男がいる。革命軍のリーダー、パンチョ・ビージャの部下である彼は自分の生を完成される「女」を求めながら、革命的大義と暴力を遂行している。そこには三者三様の生があるけれども、誰もが自らの生を「まっとうしたい」と考えている。充足した、完璧な、渇きが癒された生。その生をめぐる「実存的な闘い」が、三者の愛憎をもって描かれるところがとても素晴らしかった。そこにはもちろん暴力があり、性がある(この小説の性描写のなかに、中上健次と通ずるものを感じたのは言うまでも無い)。


 メキシコには行ったことがないから想像に過ぎないのだが、この小説のなかにある描写には「(抽象的な)ラテン・アメリカの二面性」のようなものも感じる。それは「昼のラテン・アメリカ」と「夜のラテン・アメリカ」の姿と言っても良い。前者は、乾燥した、快活な、眩いような情景。そして「怒り狂ったような太陽」。後者は、湿っていて、淫靡で、暗い情景。そして「砂漠の上に浮かぶ月」。この相反するものが、小説上の数々の描写に抽出されているところがすごく想像力を刺激されられる。この小説、絶版らしいんだけど今すぐ再版されるべき。ヘミングウェイ・レベルの傑作っす。


 ちなみにこの小説は後にグレゴリー・ペック主演で映画化されていて、そのときの再版の際にタイトルが『私が愛したグリンゴ』に変更されている。原題は「El Gringo Viejo」、直訳するなら「年老いた異邦人」。原題に近い方が良い気がするな。マーケットプレイスで安く買えるうちに速攻カートに突っ込んで買っとくと良いと思います!





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今では決して許されることがない演奏

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D

 明日ゼミで卒論の発表があることをすっかり忘れていた。いそいそとレジュメを作成しながらフルトヴェングラー/バイロイト祝祭管弦楽団による《合唱付》を聴きながら作業。普段私はこの演奏をほとんど聴かない(クレンペラーの演奏があるから)。久しぶりにこの演奏に触れたのは、4年になってからゼミで普通に話すことが退屈になってきて、飛び道具として所々に音楽資料を挟んで発表をするというスタイルを私は採用しているんだけど(菊地成孔スタイル*1)、次回はフルトヴェングラーの第九をガン鳴らすことを思いついたからだ。聴き直してみたら、やっぱりとんでもない演奏で「頻繁に聴き返す演奏ではないなぁ」と思ってしまった。第3楽章の過剰なポルタメントや、第4楽章最後の猛烈なアッチェルランドなどとてもまともなテンションで演奏されているとは思えない。多幸感からバッドトリップへと転落するような異常さがある。


 Youtubeでフルトヴェングラーの映像を探したら、出てきたのがナチスの鉤十字が舞台の横にドーンと掲揚されているものすごい映像が出てきた。ヒンデミットを擁護したせいで、ベルリン・フィルを追われるはめになったフルトヴェングラーだけれど、こういったものが残っているとなると時に「戦犯扱い」されるのも致し方ないような気がする。観客にカメラが回ったときに映されるナチの高官っぽい人たちがおっかない。フルトヴェングラーのバイロイト・ライヴのあの異常なテンションは、こういう戦中の抑圧的な雰囲気からの解放感もあるような気がする。これと全く逆なのは1973年に来日したムラヴィンスキー/レニングラード・フィルの演奏で「ソ連の代表として日本に殴りこんできました!」みたいな緊張感が漲っていて恐ろしい。どちらも今では「あー、もう二度と聴かれることはないだろうなぁ……」という演奏には違いない。




*1:今までに「シューベルトの二面性」や「ジャズが《分からなく》なるまで」といった発表を行っている





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秋っぽいメロディ

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D


 ブラジルの作曲家エイトル・ヴィラ=ロボスの《ブラジル風バッハ第五番》より「アリア」。秋の夜に聴きたくなるメロディ。ブラジルといえばボッサを思い浮かべがちだけれど、ヴィラ=ロボスの音楽には「ボッサではないブラジルの音楽」が現れているような気がする。バルトークみたいにブラジルの民謡を採譜してまわっていた人らしい。Youtubeでいくつか同じ「アリア」が観れたけれど、この演奏がとてもよかった。すごくアットホームで、ソプラノの声質がちょっと濃いのが曲の雰囲気に合っていて素敵だ。



ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ
カポロンゴ(ポール) パリ管弦楽団 ヴィラ=ロボス メスプレ(マディ) テタール(アルベール) デボスト(ミシェル) セネダ(アンドレ)
東芝EMI (2003/03/19)
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 原曲はソプラノと8つのチェロのために書かれたもの(ギター版はヴィラ=ロボス自身が後に編曲)。同じ南米と言えどもヒナステラ(アルゼンチン)とは真逆にある叙情派なのがヴィラ=ロボス。民謡から主題を取ったりするところは似ているのに、一緒に語ることはできない。


 やっぱり少しダウナーなけだるい雰囲気とか、盛り上がりきらない旋律はボッサと通ずるものがある気がする。有名なのはこの《ブラジル風バッハ第五番》の「アリア」だけだったりするんだけど、ほかの曲もとても良い曲。第二番の「プレリュード」の和声がなかなか解決に向かわない感じだとか、気分がふわふわと浮く感じがする。





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生涯を語ることの不可能性

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トリストラム・シャンディ 下    岩波文庫 赤 212-3
ロレンス・スターン 朱牟田 夏雄
岩波書店
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 結局最後までトリストラム・シャンディの生涯はほとんど語られることなく小説は閉じられる(しかもダジャレ……)。そこで、語り手が自分の生涯を語りつくすことってそもそも不可能だよなぁ、とハッと気がついた。「人間主体は死をもって即自存在へと完成させられる」…と実存主義的な言葉を持ち出すまでもなく、語り手がそこで生きている、という事実は語っている間にも、語るべき「生涯」が生産されているというわけで、語り手が自分自身の生涯を語りつくすことは永久に不可能なわけである。


 でも、別にそういうことは一切小説には書いていなくて、相変わらず脱線ばかりが繰り広げられるばかりだ。読んでいる自分が馬鹿みたい思えてくる小説には違いない。


 こういう変な小説が読めるのは、幸せだ。





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隠蔽されるものの提示

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トリストラム・シャンディ 中 (2)
ロレンス・スターン 朱牟田 夏雄
岩波書店
売り上げランキング: 115613



 「やはりとんでもない小説だ」って思う。こういったものが18世紀に書かれていたとなると私が今まで読んできた「小説らしい小説」(起承転結があり……という形の)なんて文学史のなかでは、実に部分的な「そのとき主流だったもの」なんじゃないか、と感じる。近代文学を相対化する意味でも読んで損はない気がするけれど「感動した!」とか「共感する!」とか国語の教科書的な感覚とは無縁なので、人に薦めるのは難しい本だ。


 岩波文庫版の中巻では四巻から六巻までが収録されているのだが、四巻の第25章の前に空白のページが続き、「第24章がスッポリが抜けておりました」という説明が入る箇所がある。その後「まぁ、落丁なんですけど、無い方が本は完成したものとなるんですよ。ほんと偶然だけど、良かったねぇ」などと語り手が話すんだけれど、ここはものすごく読み手にとって不可解な気持ちにさせられる箇所だ。本来「完成したものか」と判断するのは読み手であって、書き手(語り手)ではない。つまり、ここではあらかじめ書き手がそのような読み手の権利を剥奪していることになる。ナラティヴのルールを打ち崩す奇妙さがここには存在する。


 そのような「掟破り」は他の箇所にもある。例えば、「この話を今していいものなんだろうか?」と語り手は頻繁に自問するのだけれど、普通ならこういった自問は読み手には提示されない。普段の語りでは、受ける側に隠蔽されるからこそ、語りが受け手にとって承認されるものだというのに……。我々が「普通だと思っていること」っていうのが逆に浮かび上がらせる事例として、この本を読むことが可能なのかもしれないな、とか思った。





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「ありそうになさ」の過剰

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トリストラム・シャンディ 上 (1)
ロレンス・スターン 朱牟田 夏雄
岩波書店
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 今月下旬にディドロの『運命論者ジャックとその主人』(どうやら新訳)が刊行されるそうなので、その前に『トリストラム・シャンディ』を。ルーマンの『社会の芸術』に言及されたものが短いスパンで復刊されたり、新訳がでたりしているので日本の出版会でトライステロみたいな秘密結社が暗躍しているのではないか……と疑いたくなる。次はハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ*1(ネッテスハイムのアグリッパ)の『隠秘哲学』あたりを……*2


 評判どうりとんでもない小説である。原題は"The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman"、紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見。なのに300ページ過ぎないとトリストラム・シャンディは生まれてさえおらず「ストーリーってこういうものだよな」という型を、解体するような脱線、脱線、脱線の嵐。あまりにストーリーになっていないストーリーの「ありそうになさ」が過剰すぎて、読んでいて笑いが止まらなかった。物語の途中に「序文」が挿入されたりとめちゃくちゃである。この部分、物語の内部と外部さえも既にあやふやとなっていて非常に面白い。一応トリストラム・シャンディの自伝のような形をとっているのだが「序文」は作者の手によるものとして書かれている。「語り手は誰か?」、「作者は誰か?」とか「じゃあ、ここまではメタフィクションだったのか?」みたいな部分に疑問が湧く。そういうのが曖昧なまま、語りは続き、気がつくとまた変なところに連れて行かれている…というサイケな感じがたまらなく良い。


 最近はこういう無茶苦茶に過剰なものがツボで、変なものばかり読みたいような気がします。続きが楽しみ。




*1:っつーかなんでこんなのキーワード化されてんだよ!


*2:とか思ってたら既に出る予定あるみたい。http://getsuyosha.jp/kikan/brehier01.html





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ブーレーズは、ほんとにカッコイイんだから

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D


 Youtubeにで聴けるピエール・ブーレーズの作品は↑の映像だけだった。詳細がよくわからないのだけれどRalph Lichtenstegerという人の映像作品らしい。BGMとして使われているのがブーレーズの《第二ピアノ・ソナタ》の第3楽章(演奏はマウリツィオ・ポリーニ)。



セリー主義
セリー主義
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アバド(クラウディオ) ポリーニ(マウリチオ) アンサンブル・アントン・ベーベルン ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 オムニバス(クラシック) ウィーン・ジュネス合唱団 ブーレーズ ノーノ シュトックハウゼン
ユニバーサルクラシック (1999/12/22)
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 最近、ブーレーズのピアノ・ソナタ全集が発売されたけれども《第二ピアノ・ソナタ》に関してはポリーニの演奏が圧巻。刺さるような超絶技巧の嵐は、難しい理屈が分からなくとも動物的な反応として「カッコ良い」。ピアノによるスラッシュ・メタル。嘘だけど。





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フランスの芸術に対する底力みたいなもの

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D

 「Youtubeにピエール・ブーレーズの動画でもないかしら」と思って検索かけたら出てきた変な映像。フランスにはIRCAMという国立の電子音楽研究所(!)が存在するのだけど*1、どうやらそこが金を出してマサチューセッツ工科大学のBarry Vercoe博士に作らせた「The Synthetic Performer(シンセティック・パフォーマー)」というマシンのプレゼンテーション模様のようである。フルート奏者はアンサンブル・インテルコンテポラン*2の人。


 このシンセティック・パフォーマー、自動伴奏マシンらしい。それだけ聞くと「えー、そんなのテープに録音した伴奏つかえば良いじゃん!」とツッコミを入れたくなるのだが(また音色が初期のMIDIよりも酷いシロモノだし)、特殊機能がついているのがミソ。「従来の機械では、演奏者の表現におけるテンポ変化にあわせるということができませんでしたが、このシンセティック・パフォーマーではその問題を解決しているのです」と博士の説明が入る。映像をよく見るとフルートにはコードみたいなのがくっついていて、そこで機械が音の情報を読み取って、演奏者のテンポ変化に見事に合わせている。他にもチューニングを演奏者のものに勝手に合わせてくれる機能がついているみたいだ。


 でも、やっぱりしょぼい。「うわー、すごいな」と思えるのはこういう珍発明としか呼べない機械に国が金を出しているという事実だけ。きっと、すげー金かかってんだろうなぁ、と思う。はっきり言ってバカ。だけど拍手を送りたい類のバカだ。プレゼンもまるでやる気のないテレフォンショッピングみたいで良いし。他にもこのIRCAM、ブーレーズにすごくダビーなクラリネット独奏曲を作らせたりしている。バカに優しい国なんだろうか。こういう国に生まれたかったよ。



20/21 - Boulez: Repons, Dialogue De L’Ombre Double / Boulez, Ensemble InterContemporain
Alain Damiens Pierre Boulez Pierre Boulez Frederique Cambreling Ensemble InterContemporain Dimitri Vassilakis Florent Boffard Vincent Bauer Daniel Ciampolini
Deutsche Grammophon (1999/04/13)
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 ちなみに《二重の影の対話》という作品が「ブーレーズのダブ」。クラリネット奏者VS録音されたクラリネット・パート(エフェクト付)という感じでCDで聞くとピンク・フロイドの『狂気』みたいな定位の移動だ…という程度なのだけれど、生で聴くとすごい。会場に設置された6つのスピーカーから音が飛んでくる飛んでくる(ちゃんとダビイストもいました)。馬鹿にしてるようだけれど、最近のブーレーズの作品では最も好きです。




*1:ブーレーズが所長元総裁。現在はフランク・マドレーネという人らしい(誰?)


*2:これもブーレーズ主宰のオーケストラ





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不調和が調和するベルク

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アルバン・ベルク―極微なる移行の巨匠
テーオドール W.アドルノ 平野嘉彦
法政大学出版局
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 アドルノによるアルバン・ベルク論。この作曲家は、アドルノの作曲の師でもあり、本のなかではアドルノとベルクの交流についても綴られている。ベルクの生きた様子などに関する資料は、少なそうなので貴重なものなのかもしれない。シェーンベルク、ヴェーベルンらと一緒に「新ウィーン楽派」とくくられることからこの三人は親密な共同体として活動していたのかと思ったら、意外にも行動がバラバラだったりしたところが面白かった。残された作品を聴く限り、三者三様の「新音楽」がある気はしていたのだが、その証明ともなり得る。


 ただ、結構読むのはキツい本である。前半にベルク概論的な文章と回想録があり、後半は作品分析になるのだが、後半がキツすぎる(はっきり言って『否定弁証法』よりずっと読めない)。譜例を用いたアナリーゼが延々と続き、歯が立たなかった。私にとって身になった数少ないものといえばアドルノによる「作品分析論」が語られているところ。アドルノが「分析」について語る際には、毎回と言って良いほどシェーンベルクの言葉が引用されるのだが、ここでも同様であった。それとオペラにおける音楽とテキストの関係性に触れられている部分ぐらいしかまともに読めない。この部分では結構「音楽批評家」と「思想家」というアドルノの二つの姿がつながりそうなのだが「まだまだ難しいな……」とか思う。



ベルク:弦楽四重奏曲
ベルク:弦楽四重奏曲
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アルバンベルク四重奏団 アルバン・ベルク四重奏団 ベルク
東芝EMI (2005/12/21)
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 読んでいる途中、先日の鍋パーティで偶然ベルクの話になったのを思い出す。某音大大学院にて声楽を学ぶid:redsmokeさんが「ベルクが好き!」と言ってらしたのである(どんな流れでそんなことを言っていたかは忘れた)。ベルクの名前が出てきたことにびっくりしつつ「えー、ベルクー。なんかロマン派と混ざっててハンパじゃねー?(ヴェーベルンのほうが良いよ)」と私が言うと「だから良いんじゃない!」とみうらじゅんばりの返事が返ってきた。アドルノ曰く「彼が12音技法を受け入れたとき、彼の最初の関心は、それを破綻なくみずからの音調に融合せしめることだった」そうな。「ロマン派と混ざっている(だから良いんじゃない!)」という指摘は、そのアドルノの言葉と関連しているようにも思う。


 で、《叙情組曲》を聴き直してみた。久しぶりに聴いたので、冒頭にドビュッシーが用いそうな和音が聴こえたあたりで「あれ、こんなに綺麗な曲だっけ」と思ってしまった。ところどころ腐りかけの果実みたいな美しさがあるのだが、なんとも言えない。またシェーンベルクやヴェーベルンの方がずっと整然としていて「調和した音楽」に思えてくる。実際、ヴェーベルンの「ルールに則ってる」感は、ものすごくシンプルだし。逆に言えば、その12音音楽で調和している感じにいかないで、「不調和の調和」という矛盾した状態のなかにとどまっているところが、ベルクの魅力なのかなー。ちょっと興味がでてきた。





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中原昌也がまた良いことを言っている

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STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2006年 12月号 [雑誌]

INFASパブリケーションズ
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 私にとっての90年代とはイエモンが好きだった中学生が地元のFM放送局の深夜ラジオで伊藤正則の洗礼を受けアイアン・メイデンに目覚める…といったあまりリアルタイムと関係ない過ごし方をしたため、特にこの総括に対して思うところはない。とりあえず「渋谷系」に対するライターの溢れんばかりの愛情とかシニシズムとかが、こう…単純に気持ちが悪いよね……という感じだ。「すみません、フリッパーズが好きで……気持ち悪くて」という批判を先回りする感じが、私にはさらに気持ち悪くてこう「良いだろ!好きで!!」と開き直ってもらったほうが素直に受け止められるというか。その点やはり伊藤正則の「俺の好きな音楽は全部メタル」という開き直りにも似た快活さは最高にクールだと思う。やっぱ、ゴッドっすよ、マサは。私も「俺の好きな音楽は全部プログレ」とか言いたい。


 しかし、唯一中原昌也のインタビューはすごく面白かった(短期集中連載の『中原昌也フェスティヴァル』も)。各所で中原は「情報がフラットになっているせいでおかしなものが生まれにくくなっている状況」を嘆き、また「おかしなものが変に洗練されていたり、また無視されていたりする状況」に対して憤りをぶつけてたと思うんだけど、このインタビューで初めて「じゃあ、自分はどうするか」みたいな決意表明みたいなのをしている。ベタでそう考えてるかどうかは分かんないけど「個人として状況にアゲインストする」という態度はとても良い。


 「なんでみんなアゲインストしないんだよ!」と集団を形成しようとする前に個人としてアゲインストしなくちゃいけないのかぁ、とミスタードーナッツのカフェオレを(マサカーを聴きながら)啜り考えていたら、こう、身の引き締まるような感じがして「よし、やったるぞ」と決意に至る。これから自分が何をやるかは分からないけれど、とにかくやるんだよ。馬鹿に思われるかもしれないけど、やるのだ。とりあえず、そのときやったのは『Killing Time』を再生し続けるiPodのヴォリュームを上げることだったのだが。





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朝からサイケデリアが満開だ

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 シド・バレットがいたころのピンク・フロイドのセカンド・シングル「See Emily Play」のPV。サイケとポップがゆるくまとまった名曲なんだけれどファースト・アルバムには未収録。聴くにはピンク・フロイドの道というレアトラックとかを集めた編集盤を買わなくてはいけないのがEMIっぽい商売の仕方だと思う。ボートラで付けてくれたら良いのに!金に汚い!!東芝EMIにしても紙ジャケが輸入盤の2倍ぐらいの値段するからムカつくよな。



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 「ピンク・フロイドならファーストが最高!」とシド・バレット原理主義みたいな人が結構いるんだけど(私もやっぱりシド・バレットが好きだからファーストが一番好きだ)、その後の金とアート志向な試みが結実した作品も見逃せないと思う。特に映像作品Live at Pompeiiは必見。その名の通りヴェスヴィオ火山の大噴火によって死滅した都市国家ポンペイの遺跡(世界遺産!)でのパフォーマンスを収録してるんだけど、もう演奏も映像も最高です。「バンドをやるからには武道館か東京ドームでのライヴを目指す」とか甘いこと言ってないで、日本のプロ志向バンドの方々にはもっと大きなこと言って欲しいね。白神山地とか屋久島とか。



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 ああ、もう試みがバカ過ぎてカッコ良い。この狙いの大きさというか洗練されていなさが70年代ロックの特色だと思われ、こういうものを好きになってしまうと二度と離れられない(ロック以外だとフリージャズとフュージョンも「洗練されてなさ」が好きだ)。クラブジャズとかポスト・ロックとか生ぬるいこと言ってんじゃねぇぞ、オラァ!!



おせっかい
おせっかい
posted with amazlet on 06.11.08
ピンク・フロイド
東芝EMI (2006/09/06)
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 デヴィッド・ギルモアの「頭の狂ったライ・クーダー」みたいなスライド・プレイが堪らん。





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私のアドルノに関するエントリに対するリアクションに対するリアクション

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http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061107/1162865739#c


 id:sumita-m様、私のアドルノに関するエントリにここまで長いリアクションをいただけたのは初めてです。ので、まず「読んでいただきありがとうございます」という感謝の念を示したいと思います。こういった外部からの刺激がありませんとなかなか文章を公開している意味がありませんので、チャンスをいただきとても嬉しく思いました。


 リアクションに対する私からのリアクション、というよりもエクスキューズのようなものになってしまうと思いますがとにかく書かせていただきます。



「少々言いすぎになるかもしれないが、彼が批判するヘーゲル的弁証法のなかの「特殊者」は、ヨーロッパにおけるユダヤ人のアナロジーであったと言っても良い(かもしれない)」とは面白い解釈だが、はたしてそこまで言えるのか。また、読者の立場において、そのように「ユダヤ人」を特権化していいものかどうか。


 この点に関しては私も「言いすぎだろうな…まずいかな…」と思いながら書きましたが「そう読むことは可能である」というぐらい範囲で考えています。また「特殊者≒ユダヤ人」としたほうが、アドルノのアウシュヴィッツ関連の言葉と絡めて、私にとって納得が容易だった、ということもあります。特に私は「特権化」している意識はありませんし、アドルノが批判するような状況はどこにでもあるようなものだと思っています。ユダヤ人にのみ適応される議論だとは思っていません。むしろ、(ユダヤ的な帰属意識が弱い状態で育った世代とされる*1)アドルノ/ホルクハイマーをあまりにもユダヤ的なものと接近させる考えには「どうなのかなぁ、それ」と思ってしまう。例えばアドルノの『マーラー』の訳注に「形象禁止」の説明がありますが「神の形象を具体的に描いてはならないとするユダヤ神学の教えに由来する」としてしまうのは、かなり疑問に思います。



「非同一性」の擁護というのは、アドルノにとどまらず、俗にポストモダンと称される思考の基調であることは周知のことであろう。



 これは、赤面ものです。「ポストモダンと称させる思考」についてはほとんど何も知りませんし、視野にありませんでした。現在の思想界/論壇(そういったものがあるかどうかも知りません)から全く切り離された地点で本を読んでいるため、おかしなことはたくさん書いてあると思います。何かしら書く時点で「知らないですませるわけにはいかない」のかもしれませんが。その点に関しては私の不勉強をお詫びするしかありません。



また、この方は、ホルクハイマーの『理性の腐蝕』に触れて、「序文から「われわれの哲学は一つである」とか書いてあって二人の若干ホモセクシャル的な関係性を伺ってしまう(実際はどうかしらない)」*2と書いている。



 これはネタなので……ベタで読まれるとなんというか……すみません。


 アーレントからアドルノへの批判には、彼の音楽評論活動で「ナチス賛歌」的な歌曲を褒めていたことを戦後に「不誠実な態度ではないか」と指摘したものがありました(それに対してアドルノは『あのときは仕方が無かった』的な逃げ方をしている)。アーレントとアドルノの食い違いに関しては何も述べることはできませんが、思い出したので書きました。




*1:藤野寛本参照





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練習するグールド

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 グレン・グールド 27歳の記憶より。この映画は過去に7回ほど観ておりますが、カナダの田舎にある湖に近い自宅でバッハのパルティータ第2番1楽章を弾くこのシーンが最も好きです。使用しているピアノはチッカリング*1古いグランド・ピアノ。スタインウェイのピアノが全世界で圧倒的なシェアを持っている現在では、あまり目にしない「ピアノが調度品として扱われていた時代」の装飾が美しい楽器です。グールドはこれを残響を少なくするように調整し、チェンバロに似せた音にさせているそう。ちなみにこの演奏、CDになっている録音よりかなり速いテンポ。「鬼気迫る練習」……というか。でも楽器を練習中っていうのは本来このぐらい集中していないとダメなのだと思う。



バッハ:パルティータ 全曲
グールド(グレン) バッハ
ソニーミュージックエンタテインメント (1994/04/21)
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 私はグールドの《平均律》があまり好きではないので、《ゴルトベルク》以外のバッハ演奏になるとパルティータ全集が素晴らしいと思っています。特に第2番と第6番。




*1:ボストンのピアノ・メーカー





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表紙がエロい

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失われた時を求めて〈8〉第四篇 ソドムとゴモラ〈2〉
マルセル・プルースト Marcel Proust 鈴木道彦
集英社



 ここ最近ずっとプルーストを読んでいて、他の小説が読みたくなった。ので「よし、一気に片付けてしまえ!」と家にある8巻を丸一日かけて読み終えた。えいやっ!という感じである。ここまでがプルーストの生前に刊行されたものらしい。今まで読んできたなかでは8巻が一番ドタバタしていて面白いかもしれない、と思った。病弱で夢見がちなお坊ちゃんである語り手よりも、貴族で男色家でピアノが上手いシャルリュス男爵のほうがよっぽどキャラ立ちしていて、そのシャルリュス男爵がものすごく動いて主役を食ってしまってるようなところは『ハイ・フィデリティ』のジャック・ブラックみたいだ。


 シャルリュス男爵は美少年ヴァイオリン弾き、モレルのパトロンになっているんだけど、この二人の愛人関係(といってもモレルの方では男爵を利用しているような感じである)を描いた際の男爵の倒錯っぷりがとても良い。途中で裏切られちゃって二人は別れちゃうんだけど、男爵の激しい嫉妬だとか策略(決闘騒ぎをでっちあげたりする)がなんとも醜い。そこが喜劇っぽく笑えるところだ。


 あと「列車旅行と自動車旅行の違い」について語り手が長々と語るところが面白かった。あー、なんとなく分かるなぁ、と。私も列車旅行が好きだ。





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好きなものを好きと云いたい

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 先日お会いしましたid:redsmokeさんのところに、私に対する「人物評」が書かれており、ふむふむと思いました。「好きなものに夢中な子供のような無邪気感アリアリでかわいらしい子」だそうです。紳士を標榜する男子たるものが「かわいい」といわれてしまうのは若干どうかと思いますが、そのように思っていただけてこちらとしても満足でございました。実のところを申しますと「好きなものを前にして子供のように振舞うこと」は私が生涯貫いていきたい態度の一つでございます。


 しかし「好き」という態度の表明は少し気恥ずかしいものであります。でも、「好き」と云いたい。しかし、残念ながら私はもう既に立派な大人。ある意味では私が「好きなもの」に対して長々とこのブログ上で文章を書き綴っているのは、ただ単に「好き」と云ってしまうことに対する照れ隠しのようなものであるのかもしれません。「○○だから好き」、例えば「クレンペラーの指揮する木管楽器を強調させた演奏は、現代のオーケストラにはない豊かな響きを作り出している。だから私は好きだ」と云えばなんとなく体裁がつきます。


 普通はなんとなくそこで納得されますが、もう少し突っ込んで「じゃあ、どうして豊かな響きがすきなの?」と訊ねられると困ってしまうところです。またそこで「豊かな響きは○○だから好き」と云わなくてはいけない。ここからは問いの循環にしかなりません。「どうして○○が好きなの?」――「○○は△△だから好き」――「△△は……?」。この場合、本当に真摯な答えだと思われるのは「クレンペラーが好きだから好き」という同語反復にしかなりません。これは「こどもの返答」です。私がここに書く文章の根源的なところには、そういった「こどもの返答」をひた隠しにしている部分があります。めんどうくさいけれど、「好き」というには恥ずかしいから、思わず理屈をこねてしまう。


 「気持ちを閉まっとけばいいじゃないか」と云われても、仕方ないんです。だって、書きたいんだから。好きって言いたいんすよ(これもこどもの返答)。





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俺とお前とマーラーとアドルノとプルースト

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失われた時を求めて〈7〉第四篇 ソドムとゴモラ〈1〉
マルセル・プルースト Marcel Proust 鈴木道彦
集英社



 アドルノはそのマーラー論のなかでマーラーとプルーストの近似性について指摘していたが、たしかにプルーストを読んでいるとマーラーの音楽に近いものを書いているなぁ、と思う瞬間がある。それは両者がただ単に「長いものを書いていた」というだけの単純な話ではない。むしろそういった量的なものではなく、プルーストの語り口、マーラーの語り口という態度的なものが似ている。プルーストの言いよどみ、脱線、記憶の急な挿入といった手法は、マーラーの主題の繰り返し、迷宮的な展開、通俗音楽(レントラーあるいはマーチ)の挿入に近い……というようなことを読み終えて少し考えた。


 6巻で語り手にブチギレしていたシャルリュス氏が実はホモ・セクシャルで、語り手に対する奇妙で理不尽な態度も実は愛憎が入り組んだ複雑なものだったのか……と非常にすごい展開になる第7巻。社交界の様子などは、いつも割とどうでもよい感じで読み飛ばしてしまうのだけれど、世相などが反映された内容は刺激的。小説内のフランスは、ちょうどドレフュス事件で大揺れで、ユダヤ人でドレフュス派のスワン氏に関しての悪意のこもった言葉がやりとりされるのはなんとも言えない。「社交界の仲間に入れてやってたのにあいつもドレフュス派かよ。ケッ、あいつも結局ユダ公なんだな!」と陰口を叩く。すごく社会派な感じがする描写。


 途中で死んだ祖母のことを急に思い出すのだけれど、そこは結構グッと来てしまう。過去の記憶はいつも美しい。しかし、そこには二度と戻ることができないのだ。





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狐の会のPV

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 原田先生はどこに行ったんでしょうか。



秋の夢
秋の夢
posted with amazlet on 06.11.06
狐の会
インディペンデントレーベル (2006/01/23)






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