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9月, 2006の投稿を表示しています

「感動させる本」は果たして誰を感動させるのか

豚の死なない日 posted with amazlet on 06.09.30 ロバート・ニュートン・ペック 金原瑞人 Robert Newton Peck 白水社 売り上げランキング: 93,176 Amazon.co.jp で詳細を見る  私はかなり白水社の「Uブックス」というシリーズを信頼しているので「面白かろう」と思ってブックオフで回収。翻訳は金原瑞人。芥川賞作家のお父さんですね。ロバート・ニュートン・ペックという作家もこの翻訳家のも初めて読んだ。本の裏表紙にはこんな言葉が書いてある。 ヴァーモントの貧しい農家の少年を主人公に、誇り高い父の教え、土に根ざして生きる素朴な人々との交流、動物たちへの愛情を生き生きと描く傑作。子供から老人まで全米150万人が感動した大ロングセラー、待望のUブックス化!  だそうな。正直言って私はこの小説に関してあまり良い印象を抱いていない。「面白くないわけじゃないけど別に感動するほどではないよね……」という感じである。「父と子の交流モノ」であれば、私はヘミングウェイが描くそれを深く愛情を持って読んでいるし、ジャンル分けで言うなら嫌いなジャンルじゃない。けど、この小説に関して言えば「これはなんか…出来すぎだよな」とか思ってあまり面白いと思えなかった。「誇り高い」というよりも「宗教(シェーカー教)の戒律に厳格すぎる父」のあまりにも堅物なところだけは面白かった。  あまりにも「良い話」で終わってしまうのである。裏表紙からいくつか小説に書かれた要素を抽出するなら「貧乏」、「父と子の交流」、「動物」、「愛」ってキーワードが浮かび上がる。それって皆好きそうな感じだよね。もうどうやったって「良い話」にしかならない感じ。じゃあ、『東京タワー』で良いじゃないか、って思う。『東京タワー』は良かった。私も地方出身者だから、すごく「共感」があった。でも『豚の死なない日』は行ったことがない国の行ったことがない地方の話。「共感」も何もないわけだ。もちろん「全米150万人が感動した」なんて言葉を本気で信じてるわけじゃないけど「これで誰が感動するのか?」って素朴に考えてしまう。結構イラッと来るんだよな、なんか。  感動とはまた違うけど、『ハチドリのひとしずく』 *1 にもまた似たようなものを感じるんだよ!一番イラッと来てるのはでも『豚の死なない日』の続

一部でアドルノ対ルーマン

社会の芸術 posted with amazlet on 06.09.30 ニクラス・ルーマン Niklas Luhmann 馬場靖雄 法政大学出版局 (2004/11) 売り上げランキング: 322,456 Amazon.co.jp で詳細を見る  「アドルノが!アドルノが!」としばらく言い続けていたので「少し気分転換にルーマンでも読むか……」と思い『社会の芸術』を。少し現在の研究テーマとかぶるところがあるかなぁ、なんて思いながら読みはじめましたが、当然のことながら気分転換になるわけがなく、散々苦しみながら読了しました。ルーマン本人、それから訳者である馬場先生も触れられているとおり、1~3章が一番キツい。けど、そのキツい抽象度の高い議論のなかに「ルーマンにしか言えないポイント(つまり、そこでしか読めないという『価値』を感じさせるもの)」がたくさんあるような気がする。第4章、第5章はちょっと凡庸な風に読めた。  冒頭の方で「私がこの本で目指している帰結は、アドルノが言っているような話とは関係ないですよ」と宣言しておきながら、ルーマンは各所でアドルノを批判しているところがあり「なんだろうな……」とか思いつつその部分を読む。ルーマンが解釈したアドルノというのが、どうにやはり引っかかる。ルーマンによれば、アドルノは以下の二点のように『芸術、かくあるべし!』と言っているらしい。 芸術よ、純粋であれ!あらゆる外的影響を拒絶せよ!! 芸術よ、社会を批判せよ!  この二点、どちらもルーマン的な視座からすれば簡単に批判することができる。まず前者は「そんなこと言ったって、芸術システムが他のシステムからの影響を被らないわけないじゃないっすか。できねぇっすよ」。後者については「えー、それじゃ芸術は社会の《反省》機能にしかならないってことっすか?それって自律してるって言えんの?」と。さらに「この二つを弁証法的に綜合しろ、って言ったって無理っすよ」とルーマンは言う。  たしかにアドルノの思想はそういう風に読めるし、そうだとするならルーマンによる批判(というか斬り方)は正しい。でも、どうにも納得いかない。正しいけれど、全然間違っているように思える。というか私は「そういう風に読んじゃったら、全然アドルノがつまらな

居心地の良い文章

浴室 posted with amazlet on 06.09.27 ジャン‐フィリップ トゥーサン Jean‐Philippe Toussaint 野崎歓 集英社 売り上げランキング: 241,058 Amazon.co.jp で詳細を見る  どこかでチラチラと名前を見かけて *1 気になっていた作家、ジャン=フィリップ・トゥーサン。ブックオフで見つけたので回収して読んでみた。とても不思議な居心地の良い感覚へと持っていかれる小説だと思う。「冷暖房が程よく効いたホテルのロビーにあるソファーに座って、ペンギン・カフェ・オーケストラを聴いている」ような感じである。この喩えって全然伝わらない気がするんだけれど、とにかくこの居心地を言い表そうとしたら、そんな情景が頭に浮ぶ。  小説で、とくに出来事らしい出来事はおこらない。ある日、主人公の「ぼく」は恋人と同棲しているマンションの浴室で生活をし始める。だからと言って次から次へと面白い人物がそこに訪れて……という展開はない。得体の知れない貧乏なポーランド人の画家や、主人公の母親がやってくるだけだ。「ぼく」も頑なに浴室から出ようとしないわけでもなく、すぐに出てきて普通に暮らしたり、第二章では浴室から出て旅行にいったりもする。「ぼく」には浴室で暮らす理由も、旅に出る理由も何もないように私には思われた。ただなんとなくそうしているだけ、という感じだ。何も起こらない没ドラマのなかで「ぼく」は、なんか小難しい哲学的思索に耽ってみたりもするんだけれど、それすらも全然深刻な感じがしないのである。  「何も起こらない」と言えば、すぐさまベケットの有名な戯曲が浮かぶけれど、あそこにある閉塞した感じはない(もちろん文体の印象もそこには強く影響している。軽やかで柔らかく、そして若い文体だ)。この「何もおこらないのに、全然不安じゃない、むしろ心地良い」という小説の印象は特殊な感じがする。ああ、この感じ、ある時期の宮台真司の著作でインタビューに答える若者の感じに近いのかもな、とも思う。「世の中ものすごく暗いし、生きづらいのにコイツらは全然生きづらそうじゃない!むしろ楽しそうだ!!」という感じ。そういうある種の動物的な生き方が全然理解できなかったけど「これか!」と思った。 *1 :友人の卒論テーマだった

あやふやな立ち位置

アフターダーク posted with amazlet on 06.09.25 村上春樹 講談社 (2006/09/16) Amazon.co.jp で詳細を見る  文庫化されたので読む。周囲の評判がすこぶる悪く心配だったが、私は良い小説だと思った。主人公のマリの周辺のいたるところに「私たちが現実に存在している立ち位置は、確固たるもののようで、実は全然あやふやである」と言うテーマが象徴として描かれている……と浅はかな読み方だけれどそんな風に思う。「世界の根源的な未規定性が…云々」と宮台真司なら言うかもしれない。現実的に考えてこの小説を読んだから、そういった「立ち位置のあやふやさ(もしかしたら明日急に私は犯罪者になってしまうかもしれない…とか)」に読者が気付くか、と言えば難しい問題である。カフカの『審判』が「不条理小説」と処理されてしまうのと同じように。  ついこの間から私は大学一年生のゼミで学生の勉強を補助する、というアルバイトを始めた。ゼミの先生は元厚生省のキャリア官僚で、今はセクシャル・マイノリティの研究者、自身もゲイ、という面白い経歴を持つ人だ。「ワイドショーのコメンテーターにはなるなよ」、ゼミの第一回目で先生はそんなことを言っていた。「コメンテーターって自分がすごく超越的な視点に立って発言して、まるで『自分には事件を起こす可能性なんてまったくない』みたいな話し方をするじゃない?このゼミの皆さんにはそういう『高い視点』から降りてもらって『自分にももしかしたら事件を起こす可能性が充分あるんじゃないか』とかそういう気付きがあって欲しいと思うのね。 研究を進めるなかで 」。  「立ち位置のあやふやさ」に気付くことの難しさを言おうとして、思い出したのがそんな最近聞いた話。何らかの主体的で、能動的な行動(読書よりももっと能動的な)が無い限り、「気付き」は訪れないように思われた。その行動が、例えば研究であったりする。小説内で言うなら高橋は「裁判の傍聴」によって気がついたわけだし。物事として「ああ、確かにあやふやだ」という話は理解できる。しかし、こういった感覚は「理解」というよりも「衝撃」でなくてはならないような気もする。

Moodstock at GARB pintino

ニシヘヒガシヘ posted with amazlet on 06.09.25 本田祐也 チャンチキトルネエド トラクターエンタテインメント (2005/09/07) 売り上げランキング: 24,614 Amazon.co.jp で詳細を見る 24日に知り合いが何人か参加している「《鍵盤文化+挑発的ブラス》による入り乱れる超速フレーズ、およびハイパービートのハイブリット・コンテンポラリー・ミュージック&パフォーマンス・オーケストラ」チャンチキ・トルネエド *1 のライヴがあると聞き、久しぶりに観に行きました。会場は東京タワーの真正面にあるGARB pintinoというお店。イベントのメインアクトは田中邦和、沖祐市(スカパラ)のユニット、sembello。場所が場所だけにオシャレベルが高く、取り澄ました顔で音楽を聴き、談笑などをされておりましたが、ビュッフェ形式で食べ物が出ると鬼のような形相で食べ物に群がる様子がなんとも浅ましくて素敵だ、と思いました。セクシーな黒いドレスを身に纏った女性が、デザートを求めて野獣のように大皿へ……という光景は圧巻。 チャンチキ・トルネエドのライヴはいつものようにとても素晴らしかったです。メンバーが全員、東京藝術大学卒……という鬼のようなエリート中のエリート集団ですから、楽器を演奏テクニックはもう涎が出るほどに上手い。演奏する曲は「チャンチキ(チンドン)+クレズマー+ジャズ」みたいな感じで、高速フレーズが展開。さらに美男美女が揃っている……という最強っぷり。衣装は現在ユニクロとコラボレートしたことで話題の「シアタープロダクツ」が手がけています(素晴らしい衣装で完全武装したトランペットの佐藤秀徳さんが、『王子感』に溢れすぎて鼻血がでますよ)。音楽的な凄さで言えば「即興的に繰り広げられてように聞こえるフレーズが全て作曲家、本田祐也の手によって書かれたものである」ということ。まるで非エクリチュールの音楽であるジャズに対する西洋音楽からの挑戦のようにも思えます。本当にすごくカッコ良い。惜しむらくは、このような良いモノを書く作曲家、本田祐也さんがすでに鬼籍に入られていること。音楽は素晴らしく、楽しい気持ちにさせてくれるものなのに、チャンチキ・トルネエドのライヴに触れるたび、すごく悲しい気持ちに

ボズ・バレル死去の暗さを吹き飛ばす天気

 ブラームスのピアノ協奏曲第2番。私の中で「秋の超良い天気の良い日っぽい曲」といえばこれです。1楽章、ホルンの独奏に導かれるようにして入ってくるピアノ独奏を聴くたびに、乾燥した空気と日差しの柔らかい温かさが交差する感じが記憶の中で蘇ってくる感じです。作品番号は83番。円熟期に入ったブラームスの名作ですね。ヴァイオリン奏者のギドン・クレーメルは「ブラームスは実は交響曲を9つ書いていた。4つの交響曲に、2つのピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、二重協奏曲、そして《ドイツ・レクイエム》。これらがブラームスの9曲の交響曲だ」と言っていました。珍説ですが、この作品などを聴くと非常に納得のいく感じもします。オーケストラのなかにピアノが自然に溶け込んでいるせいで、カデンツァの部分でもオーケストラが鳴っているような錯覚に陥ってしまう。オーケストラの強拍を裏に持っていくリズムの面白さは、とてもブラームスらしい。  そして第3楽章。室内楽的な性格を持った楽章で、このあたりを聴けば「ブラームスは秋っぽいなぁ」と言われている理由が分かる気がします。冒頭、チェロ独奏の甘いメロディが、ヴァイオリン(+ファゴット)へと歌い継がれ、チェロとオーボエとの絡みに……という流れが見事過ぎ、ピアノが入ってくる前に涙がこぼれてしまいそうになりますね。こんな良い旋律が書けるのにも関らず、生きてるときのブラームスは「あぁ、良いなぁ、ドヴォルザークは。あんなにメロディすらすら書けて……」と羨んでいたというのが面白い。私がクララ・シューマン *1 なら「あんな肉屋の息子が書いたドロ臭いメロディなんかより、ずっと良いもの書いてますよ。自信持って!」と励ましてあげたい。  Youtubeにあるかな、と思って探したらCD化もされていないんじゃないか?っていう貴重な映像がありました。上にあげたのは全てバレンボイム(ピアノ)、チェリビダッケ(指揮)、ミュンヘンフィルのライヴ演奏。チェリビダッケはこれでもかと豊穣な音をオケから引き出しており、こんなオケと一緒にやれる独奏者は幸せものだ……と思ってしまう。似たような組み合わせに、バレンボイムとクレンペラー/フィルハーモニア管によるベートーヴェンというものを持っていますが、これは独奏者とオーケストラがまったく噛み合わなくて、両者の異質具合が面白過ぎる……というクレンペラー愛好

あんた、マティーニを作れる?――チャーチルが旨いって言ってくれたよ

マイク・ハマーへ伝言 posted with amazlet on 06.09.24 矢作俊彦 角川書店 (2001/07) 売り上げランキング: 33,952 Amazon.co.jp で詳細を見る  これはもう文句無しに面白い小説でした。元マンガ家で、元「ニューハードボイルドの旗手」で、大友克洋漫画の原作者で、いまや日本の現代文学の旗手のひとりである矢作俊彦の処女長編。この作家さん、色々人のつながりでよく話を聞かされていたので勝手に親近感を持っていたのだけど読んでみたら見事にハマってしまった。文章の質、文体、表現のどれを切っても「カッコ良い!」という嘆息が漏れてしまいそうで痺れる。  「カッコ良い!」と痺れてしまうことは、決して意味があることではなく、それ自体は一瞬で過ぎ去ってしまう動物的な感覚に過ぎず、無内容なものだな、と私は思う。けれども、だからこそ一層惹かれてしまうところがある。「カッコ良いものは、徹底して無内容であるからこそ、カッコ良いのである」という無茶苦茶な論理が(男が読む)ハードボイルド小説というものの中には成立している気がした。というか、もっと言ってしまえば「カッコ良いからカッコ良いんだよ!」みたいな同語反復でしか言えない。すごく閉じた価値観のなかにこういう小説はあるようにも思う。私には、そういうのは結構心地良い。  とにかくもう矢作俊彦を好きになってしまって、グイグイ読みたい気分になっている。「もっと読んでみよう!」と思える作家が自分のなかで増えてきているのはとても嬉しいことだ。

ボズ・バレル死去(mixi経由)

http://www.dgmlive.com/news.htm?entry=566  キング・クリムゾンのアルバムで(音質、売られ方ともに)最も暴力的なライヴ盤『アースバウンド』、それからクリムゾンが最も美しかった時代の結晶のようなアルバム『アイランド』でヴォーカルを担当していたボズ・バレルが亡くなったそうです。彼自身のミュージシャンとしてのキャリアの全盛期はおそらくその後のバッド・カンパニー時代ですが、私にとってはやはりクリムゾンの元ヴォーカリスト。愛聴していたアルバムに関っていただけあって、亡くなったと聞いて椅子から飛び上がるぐらい驚きました。別にその後落ち込むわけでもないのだけれど。 アースバウンド posted with amazlet on 06.09.24 キング・クリムゾン WHDエンタテインメント (2006/02/22) Amazon.co.jp で詳細を見る アイランド posted with amazlet on 06.09.24 キング・クリムゾン WHDエンタテインメント (2006/02/22) Amazon.co.jp で詳細を見る  本日は二枚を繰り返し聴いて、一人追悼祭を開きたいと思います。特別歌が上手かったとか印象的な声を持っていたわけではないけど(でも、ブルースっぽいシャウトとかとてもカッコ良い)、良い歌い手だった気がするんだよな。なんだろう、このクラスで目立たないヤツがいなくなっちゃったみたいな感覚。

ウィリアム・フォークナー 『響きと怒り』

響きと怒り posted with amazlet on 06.09.23 ウィリアム・フォークナー William Faulkner 高橋正雄 講談社 (1997/07) 売り上げランキング: 18,331 Amazon.co.jp で詳細を見る  「中上健次が影響を受けた……」と聞きずっと気になっていたフォークナー。ひぃひぃ言いながらやっと読みました。私にとってフォークナーと言えば「ノーベル文学賞の作家」……というよりも元ジェリー・フィッシュのギタリスト、ジェイソン・フォークナーの方が親しみが深い、のはとてもどうでもいい話です。  ヴォリュームもさることながら、大変複雑な「意識の流れ」で書かれているので結構読むのに一苦労。しかも、第1章の主人公は生まれながらにして白痴の男(虚勢済み)の意識から書かれているため、蘇る記憶も混ざってくるから20年近い長いスパンで意識があっちへいったりこっちへいったり。第1章ではおぼろげにしか何が起こったのか浮かび上がらず、あやうく匙を投げそうになりました。しかし、そのおぼろげで、断片的に浮かび上がってくる事実が第3、4章にかかってきて「おおー、ちょっと苦労して読んだのが報われた……」という感じがしました。見事な書きっぷり。単純に「うおー、すごいなぁ、これは」と驚いてしまう。  ただ、出てくる主人公がどうにもろくでもない人間ばかり。第1~3章まで南部の名家、コンプソン家の男たちの視点が取られていますが、第1章は前述の白痴の三男、第2章はあばずれの妹を庇うばかりに「俺は妹と近親相姦を犯してしまった」と妄想を抱き、狂って自殺する長男、第3章は強欲で性格がねじまがってる次男……と一人もまともな人間がいない。家で使われている黒人のおばさんの方がよっぽどまともに思えてきます。こういうのは正直、気が滅入って……。  風邪ひいて寝込んでるときに読む小説ではないな、と思いました。体力があるときにフォークナーはまた読み直したい。

ノラをうらやましいと思う?

人形の家 posted with amazlet on 06.09.15 イプセン 原千代海 岩波書店 (1996/05) 売り上げランキング: 56,276 Amazon.co.jp で詳細を見る  面白かったけれど、考え中。とりあえずイプセンの顔が面白い。小林よしのり『おぼっちゃまくん』の涙みたいなもみあげ。

川上弘美と逆説的な女性性

蛇を踏む posted with amazlet on 06.09.15 川上弘美 文藝春秋 (1999/08) 売り上げランキング: 40,302 Amazon.co.jp で詳細を見る  川上弘美という作家がいることは前から知っていたのだけれど、現代の作家に手を出す勇気がないせいで読まないでいた。急に読む気になったのは先日「表紙がくるりの岸田繁だった」という理由で購入した雑誌に、インタビューと写真が載っていたからである。不思議な表情を浮かべて、タイルばりの和式トイレがありそうな飲み屋のカウンターに座る作家の姿に、なんとなく好感を持った。ふんわりとして優しい雰囲気。もし、川上弘美がシャッグスのメンバーみたいな顔だったらたぶん読む気にならなかったんじゃないか。  作家の写真の印象と作品の印象とが合うこと、って私にとっては結構珍しいことなのだけれど川上弘美の場合、気持ちが良いぐらいに合ってしまった。そういう付加価値みたいなものもあって『蛇を踏む』の文庫本に収められた作品はどれも面白く読めた。自分が理解できる範疇で「良い小説を書く作家だな」と思う。「女流作家」というものがどうも苦手なのだけれど、これは声高に女性性を主張していない感じがして、違和感などが無かった。「声高に女性性を主張しないこと」が、逆説的に女性性を主張しているのかもしれない。  うまく言えないけれど、私はその「逆説的な女性性」にとても惹かれる(沈黙を守り、従順な『古き良き』女性が好き、というわけではない)。特に作品上の性愛の表現は「あぁ、これはとても良いな」とため息が出そうになった。具体的なファンタジー、というか。「言いたくても(はずかしくて)言えない……!でもこんな言いかたなら出来る……かも!」という表現のせめぎ合い(みたいな作家の意図があったかどうかは別として)に面白さを感じてしまうのである。隠喩的表現なら隠喩的表現、直接的表現なら直接的表現と分けてあるものなら、珍しくもなんともないのだけれど、これはなんか新しかった。良いですね、恥らいのあるエロ。大体苦手なんですよー、アメリカ的なハードコア・セックスって。  ちなみに私の中の「ベスト・オブ・エロ隠喩」は、ナボコフの『ロリータ』にある「私の情熱の笏」というもの。この部分新訳ではどうなっているか少し気になるけど、まったくどうでも良い話(今度新訳の方も文

クレイジー・リヒテル(続き)

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 posted with amazlet on 06.09.15 リヒテル(スヴャトスラフ) ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団 ヴィスロツキ(スタニスラフ) ラフマニノフ ウィーン交響楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン) チャイコフスキー ユニバーサルクラシック (2001/10/24) 売り上げランキング: 1,925 Amazon.co.jp で詳細を見る  ライヴ盤以外でスヴャトスラフ・リヒテルの演奏を選ぶとするなら、カラヤンと共演したチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番になるのだろう。CMなんかでもよく使用されている「どメジャーな曲」の「どメジャーな名盤」だけれど、それだけに聴く価値はある。フォルテッシモでガツーンと鍵盤を叩いたときに、鐘のように響く独特のトーンを良い録音で堪能できる録音だ。「チャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴くなら……これ!」と持て囃されているにも関らず、本人はこの録音を全く気に入ってなかったというのが面白い。(前回紹介した)モンサンジョンの本の中でも、カラヤンに対する恨みつらみが事細かに書かれている。「あのキザったらし野郎……マジで腹立つわ……」ぐらいのことは言っていて、とにかくカラヤンのことが気に食わなかったようだ。自分がカラヤンと共演したという事実を認めたくない一心でこのチャイコフスキーの録音を否定していたのかもしれない。  プロコフィエフ、ムソルグスキー、チャイコフスキー……とロシアものばかりを紹介してきたけれど、私が最も評価するのはそれよりドイツもの、特に古典から前期ロマン派にかけての作曲家を扱ったもの。特にベートーヴェンの後期三部作(ピアノ・ソナタ第30~32番)は絶品。バックハウスが弾くベートーヴェン以上に偉そうで、悟りの境地に達している感がある。上にあげたものはおそらく80年代のライヴ映像。曲は第32番の1楽章。アクションがカッコ良すぎるけれど、勢いありすぎでミスタッチ続出(そして三重市長選のテロップ!)。しかし、これだけの勢いと圧力をもってだせること自体が驚異的。 ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第30・31・32番 posted with amazlet on 06.09.15 リヒテル(スビャトスラフ) ベートーヴェン ユニバーサルクラシック (1996/06/05) 売り上

随分久しぶりな気がする、漱石。

虞美人草 posted with amazlet on 06.09.14 夏目漱石 新潮社 (1951/10) 売り上げランキング: 33,393 Amazon.co.jp で詳細を見る  アドルノに集中していたせいかもしれないけれど、ここ最近小説を手にとってもグッと引き込まれて読むようなことが無く「あら、これが感受性の鈍りってヤツかしらん」と不安になって、漱石の読んでいない作品に手を出した。『虞美人草』。前期三部作と後期三部作の間にある作品。最後に読んだ漱石の作品は『夢十夜』だったと思うが「こんなにガッチリとした文体だったかなぁ……」と思った。自分の中で勝手に漱石観が軟化していたような気がする。文体は『草枕』の感じに近い印象。ずらりと紙の上に印刷された漢字の並びや、声に出したときのハキハキとした美しさなどに触れると「ああ、日本語って良いなぁ。日本人で良かったなぁ」と思う。最初面食らったけれど、私の中ではやはり読んでいて落ち着く作家だ。  「恋愛小説なのかな……?」と思いながら読んでしまったけど、小説中には「近代的な愛」なんかこれっぽっちも登場せず、なんというか「自分じゃ何も決められないダメ男、小野をめぐる結婚の策略と悲劇」みたいな感じ。「お世話になった先生の娘と、金持ちの友達の妹、どっちと結婚すりゃ良いのかなぁ。あーでも博士論文も書かなきゃいけないしなあぁ。どうすっかなぁ……」と小野は悩むんだけれど、全然自分じゃ決められない。そうこうしているうちに周りはどんどん悲劇の方向へと向かって行ってしまう。  小説内でも、柄谷行人の解説でもシェイクスピアの悲劇が引き合いに出されるているけど『虞美人草』の終わり方ってあまりにも唐突過ぎるし、なんか全然気持ち良い悲劇的な解決になってない気がした。例えば『ハムレット』なら主要登場人物が全員死んで幕が下りる(それってものすごくスッキリしてしまう)。けれど『虞美人草』はそうではない。後味がすごく悪い。確かにひとつの悲劇によって場は一応収まっているけれど、綺麗な解決には至っていない。というか、余計に問題は複雑になっているような気がする。これで終わって良いのか!?『門』のような美しい諦念もなんもなく……。

画一化はダメ、絶対。

啓蒙の弁証法―哲学的断想 posted with amazlet on 06.09.13 マックス・ホルクハイマー テオドール・W・アドルノ 徳永 恂 岩波書店 (1990/03) 売り上げランキング: 169,626 Amazon.co.jp で詳細を見る  ここにきて初めてアドルノの「社会学っぽい本」を読んだ気がする。が、死ぬほど難しく、今の私にはちょっと手に余るぐらい難しい本だった。頑張ったよ、俺。もし「精神と時の部屋」があったら、ミスターポポにお願いして部屋に入れてもらい、何度も読み返したいと思った。  ホルクハイマーとアドルノの共著で「どんな風に書いたか」っていうのは本の内容とはまるで関係ないし、全く重要ではない事柄なんだけれど、非日常的な言語が飛び交うこの本を二人してどんな風に練り上げて行ったか、っていうのはちょっと気になる。片方が「こんな風に書いてみたんだけど……」って草稿を持って行ったとして受け取るほうはちゃんと読めたんだろうか、コミュニケーションが問題なく行われていたんだろうか、などという不思議さがある。それこそ二人の間に《文明によって失われた他者への有機的連合というミメーシス》があったとしか思われない……なんて。  それはさておき、内容は「(世界を呪術から解放するためにあった)啓蒙がいかにして呪術的なレベルまで逆行するに至ったか」を痛烈に批判するのが一つのテーマ。カント的な理性や合理主義がどのように硬直した、画一化された、暴力的な事物へと向かっていく過程のアレゴリーを『オデュッセイア』のオデュッセウスとセイレーンの神話用いて説いている。それ以降は(特にアメリカの)文化産業と、反ユダヤ主義についてのお話。読みやすかったのは文化産業についての箇所なんだけれど、前回『プリズメン』を読んだ感想にも書いたとおり、ここには既にボードリヤール的な言説があってびっくりした。あとベンヤミンだ、ベンヤミン。 文化産業が人々に約束できるものが少なくなり、人生を意味あるものとして説明することができなくなるにつれて、文化産業が流布するイデオロギーも、当然、空虚になっていく。(p.225)  こういうちょっとしたところもすごく面白い。ポモっぽいのに、ポモではない。この本を読んでいて、9.11は過ぎ去ってしまったけれど、読む時期としては悪くない。序文に「何故に人類は、真に人

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全

クレンペラーとか古い指揮者について

 まさかクレンペラーの映像はないだろう……と思っていたのですが、あっさりと見つかってしまうのがYoutubeの恐ろしいところでありまして、見つかったのは『Art Of Conducting』というDVDの一部。冒頭はフィルハーモニア管とのリハーサル風景。曲に聞き覚えがあるのだけれど詳しくは分かりません。クレンペラーはヴァイオリンに対してボーイングを身振りで指示しつつ指揮していますが、途中で「カッ」と表情を変えてバンバンと譜面台を叩き「俺の言ったとおりのボーイングで弾けよ!」と一喝。おっかねぇ……。  英語の聴き取りが苦手ながらも、頑張って聴き取った関係者のインタビューの内容もなかなか興味深く、特に映像が1964年のベートーヴェン交響曲第9番に切り替わった後に出てくる人のクレンペラーのテンポにまつわる話は「なるほどなぁ、言いそうな話だ」と思いました(彼は『テンポに従え』とは言わなかった、とか言ってる)。指揮映像が全て断片的なものなのが残念ですが、素晴らしいですね。  演奏会中舞台から転げ落ちて下半身不随になった後の記録なので、全て椅子に座って指揮しておりますが立ち上がったら2メートルを超える長身。そして巨大な黒いフレームのメガネ。長身、メガネと昨今におけるモテ要素をふんだんに含んでおり、何故クレンペラーがフルトヴェングラーほどの人気を得ていないのか納得いかないところです。良いですよ、クレンペラー。ちょうど録音技術が高まってきた頃にEMIと仕事をしているため、木管が強調された独特の豊かな響きがちゃんと捉えられている。 ベートーヴェン:交響曲第9番 posted with amazlet on 06.09.11 クレンペラー(オットー) フィルハーモニア合唱団 ホッター(ハンス) クメント(ワルデマール) レーブベリ(オーセ・ノルドモ) ルートヴィッヒ(クリスタ) フィルハーモニア管弦楽団 ベートーヴェン 東芝EMI (2004/06/23) 売り上げランキング: 26,276 Amazon.co.jp で詳細を見る  ところでこの『Art Of Conducting』の映像、他の指揮者の映像もアップされていて思わず垂涎。トマス・ビーチャム、アルトゥーロ・トスカニーニ、ブルーノ・ワルター、フェリックス・ワインガルトナー、アルトゥーロ・ニキシュ……と20世紀前半に活躍した

内田光子についての覚え書き

 Youtubeで動画漁りなどをしていたら、内田光子がモーツァルトのピアノ協奏曲第20番(この作品ではベートーヴェンがカデンツァを書いている)を弾き振りしている映像が出てきた。彼女の演奏はシューベルトやベートーヴェンの協奏曲などをよく聴いており、日本人では間違いなく最も好きな演奏家の一人(外交官を父に持つ内田光子はほとんど海外で音楽教育を受けているから『日本人演奏家』とは呼べないかもしれないけど)。しかし、映像を観るのは初めてだったから結構驚いた。  一番の驚きは、内田光子って「顔でピアノを弾く」のだな、ってこと。弦楽器奏者なら割と「顔弾き」する人が多いけれど、ピアニストでは割と珍しいのではないだろうか。映像を見てもらえば分かるように、これでもかと愉悦の表情を浮かべており、ウッドストックのジミ・ヘンドリクスも真っ青と言ったところだ。顔とかものすごいどうでも良いけど、演奏は素晴らしいっすね。  「内田光子はどのようなピアニストか」については改めて私が文章を書く必要など無い。というのも、村上春樹がシューベルトのピアノ・ソナタについて書いたエッセイの中で彼女の演奏を言い表しているからだ。少し引用しておこう。 彼女のシューベルトは、ほかのどのようなピアニストの演奏するシューベルトとも違っている。その解釈はきわめて精緻であり、理知的であり、冷徹であり、説得的であり、自己完結的であり、そういう意味では彼女の演奏は、 どこを切っても金太郎飴のように、内田光子という人間がそのまま出てくる。 (『 意味がなければスイングはない 』)  この内田光子についての文章、特に「どこを切っても金太郎飴のように…」という部分が私にとって「村上春樹が音楽について書いたとき最も共感したもの」の一つである(この人は良い耳をしているなぁ。ホンモノだなぁ、と思った)。しかし、内田光子は「どんな特徴がある」と言って指摘することが難しいピアニストでもある。おそらく上で引用した文章も、彼女の演奏をずっと聴いてきた人でも無い限り納得いく文章ではない。彼女の演奏は経験的な知をもってでしか理解されえない。 Mitsuko Uchida Plays Schubert posted with amazlet on 06.09.10 Franz Schubert Mitsuko Uchida Philips (2005/

アドルノの切れ味

プリズメン―文化批判と社会 posted with amazlet on 06.09.09 テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 渡辺祐邦 三原弟平 筑摩書房 (1996/02) 売り上げランキング: 108,073 Amazon.co.jp で詳細を見る  アドルノの自選エッセイ集を読む。この『プリズメン』にアドルノ唯一の名言 *1 と言っても良い「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」という言葉が書かれているのだけれど、まぁ、現在の私の研究領域とはあんまり関係がない。とにかく意味が汲み取りにくい言葉をわざと書く人だから、苦労するんだけれど面白く読んだ。特に「産業が文化(芸術)を飲み込んでいる」という状況を批判するところがいくつも見られるのだが、そこにはボードリヤールの先駆け的なところもある。最近、ガシガシ新訳・復刊が続いているので「デリダが……」とか「消費社会が……」とか言ってる人にも読んで欲しいものです。ポスト・モダンとか言う前に「最後のモダニスト」みたいなアドルノを……と思う。  (アドルノのエッセイに関する常套句みたいなことだけれど)エッセイといっても「随筆」とかではなくて「哲学的エッセイ」のようなもの。「問いがあって、調査があって、考察があって……」みたいな論文という著述スタイルではなくて、アドルノはこの「エッセイ」を自らの著述スタイルにしている。そこには明確な「問い」や「目的」といったものが見えにくい場所に置かれている。だから読んでいて「えー、なんでいきなりこんな話になっちゃうわけ?」という疑問が読者の前に浮かぶ。当たり前である。アドルノは大体「○○という意図を持って文章を書きます」といった前置きをしないんだから。前戯無しの酷いセックスみたいにバリバリと自分が考えたことを、難しい文章で書いていく。  「そりゃあ敬遠されるわな」という感じなのだが、その「意図の不明さ」や「難しさ」といったものは、私には「書き手-読み手」という関係をフェアなものにしているように思われる。「意図」の部分(『意味』におきかえても良い)においては特にそう。分かり難く書くことによって、必然的にそこには「誤読」の可能性が生まれるし、一種の隙間が生まれる。「真のアドルノ像」なんて浮かばないのは当然の話だ。けれども、その統一的な真のアドルノ像を

ベートーヴェンの晩年様式

 私は普段マニアックな音楽(20世紀音楽とかソ連の作曲家とか)についてばかりブログ上に書いているけれど「ベートーヴェン」みたいに有名な作曲家も好きなのである。こういうことを言うと結構驚かれたりするんだけれど、どメジャーな作品である交響曲第9番《合唱付》なんか葬式で流して欲しいぐらい大好きで、っていうか「ベートーヴェンの作品ならなんだって好き!」と胸を張っていえるぐらいだ(初期の「ほとんどハイドンだよね」っていうピアノ・ソナタだってかなり繰り返し聴いた)。さらに熱くベートーヴェン愛を語らせていただくならば「いやー、やっぱり晩年の作品群が最強だよね!」ということになる。特にベートーヴェンが第9以降に書いた作品、一連の弦楽四重奏曲は凄すぎて何度聴いても鳥肌が立つ。こんな人間がかつて存在していたこと自体が驚きである。  「何をそんなに……」と思われるかもしれないが、最晩年のベートーヴェンが、それ以前の「音楽の革新者」的なベートーヴェンとは全く別人のような作品を書いていることが私にとって一番の驚きなのだ。ベートーヴェンによる音楽の革新。例えば《エロイカ》、《熱情》、《ハンマークラヴィーア》でベートーヴェンは時代の音楽を新しい領域へと進ませている。けれども、晩年の作品群においてはそのようなモダンな前進は試みられない。というか、ベートーヴェンは徹底して伝統的な書法へと立ち返り、その探求へと励むのである。それが最も突き詰められているのは《大フーガ》。これは文字通りフーガによって書かれた長大な作品だけれど、その厳格さや複雑さはまるでバッハに挑むような態度さえ感じられる。  しかし、それらの作品群は言ってしまえば「時代から切り離されている」。後に作曲者が献辞の言葉を黒く塗りつぶしたとしても《エロイカ》には、フランス革命やナポレオンといった「風土」が色濃く残っているし、また《悲愴》、《熱情》といった主観的なタイトルの作品はロマン主義の息吹を感じさせる(しかし、最もロマン主義的なのは第九の第4楽章なのだけれど)。けれども、最晩年の作品からはそういった具体的なイメージを喚起させない。ただ音楽だけがそこにあり、あたかもベートーヴェンがブラックホール的な「時間の消失点」の中で仕事をしていたみたいである。ある種の「悟りの境地」というか。そんな風に仕事ができた人なんて、音楽史上にバッハとベートーヴェ

男の世界ィィィィ!!

スティール・ボール・ラン 8 (8) posted with amazlet on 06.09.08 荒木飛呂彦 集英社 (2006/05/02) Amazon.co.jp で詳細を見る スティール・ボール・ラン 9 (9) posted with amazlet on 06.09.08 荒木飛呂彦 集英社 (2006/09/04) Amazon.co.jp で詳細を見る  ジョジョ、もといSBRはヘミングウェイやハワード・ホークスもびっくりなダンディズムの世界へと突入し、無内容だけれどシリーズ中最も面白いことになっていた……。1部や2部に通ずる荒々しさである。もう大好きすぎてやばい。「ベッドの上で死ぬなんて期待してなかったさ。俺はカウボーイだからな。ただ帰るところが欲しかっただけさ。旅から帰ったらときに帰る場所がな」だって。ダンディズムの素晴らしさは、それらが嘘に塗れて虚勢でしかないのだけれど、しかし、主体が自ら設定したコードにそって行動を遂行するところにある気がする。それは見事に自律したシステムだ。

ウクレレでお誕生日を

Happy birthday to you. Happy birthday to you. Happy birthday, Dear ○○. Happy birthday to you.

まどろみ

 高速バスに乗って小旅行をしました。行き先は名古屋。主な目的は「シロノワール」、「フランク・ロイド・ライトの建築物」、「モーニング・ サービス 」です。東京では9月に入った途端、秋らしい風が吹くようになりましたが名古屋はまだ残暑が厳しく、色んな意味で暑かったです(旅行中、車の温まったシートに座って寝ていたら岩盤浴ばりに寝汗をかきました)。  新宿-名古屋間の移動時間は大体6時間ぐらい。行きは運転手さんの使うマイクにやたらリバーブ(っていうかディレイ?)がかけられており、非常にダビーで楽しかったんですが、帰りは後ろの席のギャル男が騒がしい、やたらバスの中が暑いなどで全く眠れず苦しかったです。深夜便で消灯されていたため本も読めず(極端に車酔いしない体質)、することと言えば音楽を聴きながら変化していく街の灯をただぼんやりと眺めることだけ。特に美しい夜景が見えたわけでもないのですが、ピンク・フロイド、ジョン・フェイヒーなどまどろむような音楽を聴いているうちに意識が変な方向に飛んでいき、ノー・ドラッグ、ノー・アルコールでトリップしました。 狂気 posted with amazlet on 06.09.05 ピンク・フロイド 東芝EMI (2006/09/06) Amazon.co.jp で詳細を見る  売り上げ総数は3000万枚を超えるとされる『狂気』。上に挙げた動画はロジャー・ウォーターズが脱退していた頃のライヴ映像、しかもアルバムの中ではちょっと異色の曲「Money」ですがデイヴ・ギルモアの演奏が素晴らしい。バカテクなわけでもなく「ここがマジですごい!」という点は何もないのだけれど、日陰者っぽいブルースっぽいソロに惚れる。あと効果音的に用いられるスライド・ギターにツボに……ギルモア、好きなギタリストだなぁ……。  眠れないバス旅行中の車内でぼんやりと聴く、というのが「LSDとともに世界中に広まった……」と言われるこのアルバムの正しい用法なのかもしれません。

左!

 イタリアのバンド、アレアの映像です。動くアレアを初めて見ましたが、なんでこのバンドのライヴ音源ってどれも音質がブート並なんでしょうか……非常に残念でなりません。演奏している曲は「L'internazionale」、今気がつきましたが、「インターナショナル」なんですね。このバンドには他にも「Arbeir macht frei」(労働、権力、自由)というタイトルの曲があり、言わずもがな彼らの左翼的思想を表しております。もろに *1 真っ赤です。熱すぎ。  以前、友人と話していたのですが現在のようにニューウェーヴ/ポスト・パンクが再評価される前はこのあたりの70年代のプログレ・バンドがもう少し語られていたような気がします(それは私がプログれてしまっていたから覚えるただの錯覚なのかもしれませんが)。いまやこの界隈で変わらない評価を受け続けているのはカンぐらいなものですね。しかもロック的な文脈というよりもフリー・ミュージック/エレクトロニカ的な文脈でのほうが評価が高い、というか。そういうのはまた別な話な気もしてくるのです。  ここ最近「プログレ、プログレ」言っているのは、なんとなくプログレが黙殺されている、というか圧殺されている、というように感じるからでもあります。クールな時代ですから、こういった暑苦しい音楽が好まれない、というのは理解できますし、何も「プログレ聴けよ!」と声高に強制していく気持ちはありませんが、割と若い人のブログなどを読んでいて「その言葉は歴史を無視しちゃってるよなぁ」という感覚を覚えるのは否めません。例えば「日本の映画は黑澤さえいれば……」と言っている人に対して「小津は?山中貞雄は?若松孝二は?」と言いたくなってしまう感じにも似て「(歴史を無視しちゃってる感じが)暴力的だなぁ」と思ってしまう。どのように危険かは定かではないけれど、居心地が悪い。 Gioia E Rivoluzione posted with amazlet on 06.09.03 Area Cramps (1999/09) Amazon.co.jp で詳細を見る  今、この文章を書きながらアレアの『Gioia E Rivoluzione』を聴き直していましたが「過剰さ」があって、やはり面白い。変拍子で転がるグルーヴの上で鳴る安っぽい感じのシンセ・サウンドとか、デメトリオ

ジェントル・ジャイアントはどこに消えた

 「プログレなんて悪趣味で……」と何年も前に決別宣言をした私ですが、それ以降もズルズルと聴き続けております。まったく恥ずかしい限りのお話で、家のCD棚にはロジャー・ディーン *1 のイラストのアルバムが今でも少しずつ増えていっている…といった次第です。あぁ、私はいつになったらしたり顔でおしゃれな音楽を聴けるようになるのでしょうか。プログレ喫茶ではなく、ジョビン&ゲッツなどが流れるカッフェーへと自発的に足を運びたいものです。  前置きが長くなってしまいましたが、本日もプログレのお話。冒頭に挙げました動画はYoutubeで見つけた謎のサイレント動画。映っているのはイギリスで活躍していたジェントル・ジャイアントというバンドのトレード・マークとなっていた「変なおじさん」のマスクです。誰が作ったんだろう、こんなもの。精巧な作りが不気味さをより印象強くしており、バンドの音楽を聴く前からちょっと避けて通りたいような気がします。 http://www.youtube.com/watch?v=CmqLXYa26os  イエスやキング・クリムゾン、ジェネシス、EL&Pといった大御所と比べると知名度もインパクトも薄いバンドですが、演奏力は「プログレ四天王」 *2 に勝るとも劣らず。変拍子でハードロック、かつトラッド風のギター、そして変なコーラス・ワーク……っていうものすごいキメラぶり。それらの諸要素が混合しながら「音楽としては地味にまとまっちゃっている」という渋さがこのバンドの魅力なのでしょう。上のURLは1974年のBBCライヴの模様。いやぁ、演奏上手いなぁ。 http://www.youtube.com/watch?v=wPN7okQwdRk  さっきの動画の続き。この曲では途中、リコーダー・アンサンブルが挿入されています。メンバーのほとんどがマルチ・プレイヤーという器用さは、やっぱり地味な感じに結実しちゃっていて「器用貧乏」という言葉がぴったり。元々レイ、フィル、デレクのシャルマン3兄弟によって結成されていたバンドなんですが、途中でフィル・シャルマンは脱退してしまい、その後のこの曲のリコーダー・アンサンブル部分はメロディを担当する人がかけたまま演奏されていました。3人揃ってリコーダー吹いている映像は結構貴重かも。 http://www.youtube.com/wat