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クレイジー・リヒテル(続き)




チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
リヒテル(スヴャトスラフ) ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団 ヴィスロツキ(スタニスラフ) ラフマニノフ ウィーン交響楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン) チャイコフスキー
ユニバーサルクラシック (2001/10/24)
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 ライヴ盤以外でスヴャトスラフ・リヒテルの演奏を選ぶとするなら、カラヤンと共演したチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番になるのだろう。CMなんかでもよく使用されている「どメジャーな曲」の「どメジャーな名盤」だけれど、それだけに聴く価値はある。フォルテッシモでガツーンと鍵盤を叩いたときに、鐘のように響く独特のトーンを良い録音で堪能できる録音だ。「チャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴くなら……これ!」と持て囃されているにも関らず、本人はこの録音を全く気に入ってなかったというのが面白い。(前回紹介した)モンサンジョンの本の中でも、カラヤンに対する恨みつらみが事細かに書かれている。「あのキザったらし野郎……マジで腹立つわ……」ぐらいのことは言っていて、とにかくカラヤンのことが気に食わなかったようだ。自分がカラヤンと共演したという事実を認めたくない一心でこのチャイコフスキーの録音を否定していたのかもしれない。








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 プロコフィエフ、ムソルグスキー、チャイコフスキー……とロシアものばかりを紹介してきたけれど、私が最も評価するのはそれよりドイツもの、特に古典から前期ロマン派にかけての作曲家を扱ったもの。特にベートーヴェンの後期三部作(ピアノ・ソナタ第30~32番)は絶品。バックハウスが弾くベートーヴェン以上に偉そうで、悟りの境地に達している感がある。上にあげたものはおそらく80年代のライヴ映像。曲は第32番の1楽章。アクションがカッコ良すぎるけれど、勢いありすぎでミスタッチ続出(そして三重市長選のテロップ!)。しかし、これだけの勢いと圧力をもってだせること自体が驚異的。



ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第30・31・32番
リヒテル(スビャトスラフ) ベートーヴェン
ユニバーサルクラシック (1996/06/05)
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 リヒテルの「ベートーヴェン後期三部作」の録音は、1960年代の音源から晩年まで多種多様なものもあり「一体どれを聴けば良いものやら……」と迷いがちになってしまう。現に私も時期が違うものを3枚持っているけれど、「リヒテルが全盛期で第31番のフーガを鬼のような速さで弾ききってしまう60年代のライヴも良いけれど……動きが衰えてきて無理ができなくなって穏やかに弾く晩年の録音も良いしなぁ……」と選べない感じ。本当にどの時期も良いのだ。正直、何度も聴きたくなるのはPHILIPSから出た1991年のライヴだけれど。これは録音の出来もよく緩叙楽章の瞑想的な緊張感がヒシヒシと伝わってくる。中村紘子がリヒテルを「作曲者の意図をも上回る超能力的精神力」を持ったピアニストと称しているけれど、ベートーヴェンを包み込み、乗り越えるような演奏だと思う。



Sviatoslav Richter In Concert
Sviatoslav Richter In Concert
posted with amazlet on 06.09.15
Ludwig van Beethoven Franz Liszt Franz Schubert Sviatoslav Teofilovich Richter
Brilliant (2004/09/28)


 シューベルトの演奏も素晴らしい。シューベルトのピアノ・ソナタというのは、やたら長く、繰り返しが多く、構成も悪く……というよく分からない作品が多く、よっぽど丁寧に勉強した演奏家か、強烈な個性を持った演奏家じゃないと聴いていて辛抱ができない。「天国的な長さだ」とはロベルト・シューマンの言葉だったと思うけれど、本当に退屈な音楽に違いない。そういう難しい作品を見事にリヒテルは作り変えてしまう。ブリリアントから出されている5枚組のボックスセットに収められたピアノ・ソナタ第18番《幻想》の演奏は、退屈とは無縁の音楽だ。26分に渡って繰り広げられる第1楽章の中でシューベルトの「白さ」と「黒さ」の壮絶な死闘みたいなものが聴くことができる。「シューベルトなんて退屈すぎて聴いてられないよ!」と思っていたグレン・グールドも、リヒテルの生シューベルトに触れて考えを改めたそうな*1





 ちなみにリヒテルは指揮者としても一度だけ舞台に立ったことがある。子供の頃一番にハマった音楽がワーグナーだったこともあり「あー、指揮もやりてぇなぁ」とずっと思っていたそうだけれど、なかなかタイミングが悪かったりして機会無かった。人生たった一度の「めぐりあわせ」も、飲み屋で女の子に絡んでいる酔っ払いをブン殴ってしまい大事な商売道具の腕を骨折。ピアニストとしてしばらく活動できなくなったため「どれ、指揮やってみるか!」と思ったんだとか。その後、指揮台に上がってないのは、やっぱり向いてなかったのかもしれない。常人には理解できないところがある天才だから。





 追記:クレイジー・リヒテルのバッハ演奏に関しても書き忘れていました。全集に全くこだわらず気に入った曲しか演奏しない人でしたがバッハに関しては平均律、フランス組曲、イギリス組曲……と全集を完成させており、思い入れがあったのだと思います。実際、良い演奏です、が平均律以外はあまり手に入らない状況なので見つけたらこっそり私に教えてください(私が買います)。





 追記2:リヒテルのライヴ演奏に関しては「プラハ・ライヴ」というシリーズのCDが驚愕の演奏揃いです。図書館で確認しましたが《ハンマークラヴィーア》などは脳内でドーパミンが出そうな熱演。残念ながら、これも入手困難なので見つけたら買わないで私に売っている場所を教えてください。




*1:ちなみに紹介したボックスセットにはベートーヴェンの後期三部作、それからリストのピアノ・ソナタも入っている。超お得





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